思春期をニューヨークで過ごし、洋楽ラジオ番組の金字塔「全米トップ40」でDJとしてデビューしたチャッピーこと、山本さゆりさん。ベイ・シティ・ローラーズ旋風の日本での牽引役として、またその後もラジオ・パーソナリティ、音楽評論家として、アメリカの王道ロックやポップス、シンガー・ソングライターの「歌」を音楽ファンにわかりやすく紹介してきた。また翻訳家としても多くの歌詞や書籍の翻訳を手掛け、名曲の邦題も数多く名付けている。ラジオ・パーソナリティとして当時の現場をどう体験したか話を伺った。
ベイ・シティ・ローラーズ本のギャラで買った車の名前は「キャンディ・オー」
音楽業界での仕事始めはラジオ関東の「全米トップ40」ですよね?
いちリスナーだったのが’74年の暮れにスタジオへ見学に行って、湯川れい子さんにお会いし、翌月から番組のアシスタントになったんです。それで3カか月ほどした’75年4月から「チャッピーのポップス・レポート」というコーナーを作ってもらって番組に出演を始めました。まだ20歳そこそこ。最初にインタビューしたのはリック・ウェイクマン。その次がモンキーズのデイビー・ジョーンズ。突撃レポート風に外タレさんが来るとインタビューしてたのが、同時期にイギリスで新しい動きが起こり始め……。
チャッピーさんの番組スタートと連動するかのように!
そう、ベイ・シティ・ローラーズの人気がどんどん出てきて、私のコーナーもローラーズ専門に変わったの。あの頃は今みたいに情報がなく、イギリスから送られてくる雑誌か現地に行って取材するだけ。レコード会社に新曲が届くとすぐにラジオで流しました。当時はラジオ関東、文化放送、ニッポン放送と、AM 局が横並びでローラーズを盛り上げ、どこの番組が一番早いか? 競い合うように応援してましたね。
ローラーズ人気はメディアが盛り上げたんですね。
ラジオと同時に「平凡」や「明星」が週刊・月刊と両方あって、そういうとこでもローラーズがワアアと人気になって、同時に私もワアアと人気になっちゃった(笑)。「週刊セブンティーン」でも連載を始め、旅費をもらってスコットランドに飛んでね。ローラーズを食い物にしたと悪名高いマネージャーだった、タム・ペイトンの自宅まで行って、家の見取り図をこっそり書いたりしたのよ(笑)。もう亡くなったけど。そうこうするうちに音楽評論家の大森庸夫さんがローラーズ本の版権をイギリスで買って、それを集英社で翻訳して出しましょうとなって、半分は大森さん、半分は私が担当。当時37万部も売れたんです。そのギャラで車を買って名前は「キャンディ・オー」と付けました。本当はローラーズ・カーなのに、名前はザ・カーズから(笑)。
ベイ・シティ・ローラーズ
「エジンバラの騎士」
’74年発表
ローラーズ特需ですね(笑)。
あちこちから本を出しましょうと言われ、「チャッピーのBCR 大百科」や、ローラーズのファンからの手紙をまとめた「ローラーズに愛を込めて」って本も出しました。「ミュージック・ライフ」でも来日時に東郷かおる子さんと独占追跡取材をやろうと意気込み、彼らと同じホテルに部屋までとったのに、タム・ペイトンが「このフロアに女を入れるな!」の一言で締め出し。ローディーの人から話を聞こうと名刺を差し出して「何かあったら教えて」とお願いしたら、「僕にはワイフがいる」とか言われて。そういう意味じゃないっての!(笑)。ビートルズ来日騒動に匹敵するような騒ぎで羽田空港にもファンが押し寄せ、空港内の植木とかみんなひっくり返ってました。来日は’76年12月。人気がピークに達してた時だったからね。しかも来日直前にアランが辞めて、イアンが入って、辞めて、パットが入って……というごたごたもあってファンはみんなパニクって東芝EMI だけじゃなく、私の家の電話も鳴りやまない。家出してきた子が私の家に来て、2〜3日泊めたこともあったのよ。来日公演は湯川先生の車で見に行ったらファンに取り囲まれ、車を傷だらけにされちゃったんです。すごいでしょう? まるで私までもがスターになったみたいに「握手して」って言われることもあれば嫉妬もすごく、ラジオ関東にゴキブリやらカミソリの刃が実際に送られてきたし、手紙にも「ブス」「死ね、豚」とか書かれてたり。レコード会社の担当者に追っかけもいました(笑)。異常事態でしたね。
ローラーズ狂想曲ですね。
その波はあっという間に去りました。イギリスでは’75〜’76年にパンクが出てきて「タータン・チェックなんて子供っぽいわ」って変わり。ローラーズは海外に進出を図るけど、レスリーが抜けてからはもうだめでしたね。それが’78年ぐらい。特需は終わったの(笑)。だけど、ちょうどその頃にNHK-FMで「軽音楽をあなたに」という番組が始まり、私はその水曜日、木曜日を担当することになりました。
私も大好きな番組で、学校を早引けして聴いてました。
そういう人が今の40〜50代にすごく多いのよね。当時はエアチェックというのがあって……。
カセットに録音する!
だから私はイントロにかぶせて話したいアメリカン・タイプでやりたいけど、曲におしゃべりをかぶせるなって(笑)。あの頃は日本で洋楽ヒットさせることにラジオ局とレコード会社の間に協力体制があって、NHK でさえも大きな会議室に、私たちDJを集めてレコード会社の人たちがその月の押し物のレコードを持ってきて「うちはこれこれです」ってプロモーションしてくれる、プレゼン会議みたいなのが開かれてたの。
レコード会社の影響力、パワーが大きかったんですね。
70年代後半にABBAが出てきたでしょう? 当時のディスコメイト・レコードがお金を出し、ABBA のロサンゼルス・コンサートの取材ツアーをやって、私たちラジオ番組関係者や新聞社の人などを何十人もご招待! コンサートを1回観るだけで、あとは自由に遊んでくださいって(笑)。ラスヴェガスで豪遊した人やゴルフ三昧した人もいて、私もサンフランシスコまで1日ツアーに行きました。ほかにもロサンゼルスでブルース・スプリングスティーンのコンサートを着いた夜に観て、翌日帰ってきたこともあります。「軽音楽をあなたに」が生放送だったからね。オーストラリアへエア・サプライのインタビューで行った時には、当時のフォノグラム・レコードがクルーズ船を借りて、そこでインタビューをしたり。彼らは当時、日本で“ペパーミント・サウンド”って呼ばれてたけど、あれはレコード会社の担当者が作ったフレーズ。 “海と、空と、エア・サプライ”というイメージを作ってブームを起こしたんです。
ABBA
「アライバル」
’77年発表
エア・サプライ
「ロスト・イン・ラヴ」
’80年発表
ラジオも雑誌もレコード会社と一丸となってブームを作っていたんですね。
70年代最後にパンクがニューヨークで盛り上がった時には、日本でどうやろうか?と 「ミュージック・ライフ」で大貫憲章さんらと集まってみんなでパンク・ロックという名前がいいのか、ニューヨーク・ロックがいいのか? と円卓会議したことがあって。 レコード会社、ラジオ局、雑誌社、評論家、パーソナリティ、みんなでムーヴメントを興しましょうと盛んだった。そうそう、ニューヨーク・パンクの取材に行った時にはデボラ・ハリーが赤ちゃんをベビー・カーに乗せて歩いて来たり、ザ・シャーツというグループをCBGBで夜中に取材したんです。
インタビュー・文 / 和田靜香
山本さゆり(やまもと・さゆり)
東京都生まれ。60年代後半から70年代前半にかけてニューヨークに在住。 多感な10代をベトナム反戦、ヒッピー文化真っ盛りのアメリカで過ごす。ラジオDJとして活動する一方で、洋楽の解説や歌詞対訳、翻訳、司会、通訳など多岐にわたって活躍している。