Interview

ニッポンの洋楽の立役者たち A&R・野中規雄インタビュー③

ニッポンの洋楽の立役者たち A&R・野中規雄インタビュー③

チープ・トリックの『at 武道館』は ファンの女の子たちの記念品になればいいなと思って作った

チープ・トリックのこともお伺いしなくては。’78年4月の初来日、武道館公演を収めた『at 武道館』を企画して制作されていますね。

クイーンもキッスも何度かの来日公演を行なっていて、’77年にエアロスミスの初来日が実現すると、これで3大ロック・バンドは一段落な空気があって、『ミュージック・ライフ』としては次の若い世代のバンドが欲しくなってくる。
各社新人をエントリーさせていたけど、その中でチープ・トリックが’77年の9月に『蒼ざめたハイウェイ』をリリースしてブレイクした。日本デビューは同じ年の夏前だったけど、7〜8月頃から急に来たんですよ。最初、グラビア1枚載せたら反応がわりと良かった。

チープ・トリック
『at武道館』
’78年発表

その後、『ミュージック・ライフ』特派員レポートが伝えてグラビアに写真を載せたらすごい反響があって、すぐさま東郷さん(かおる子氏:『ミュージック・ライフ』編集長)が「これでいきましょう!」ってことになって、海外取材に飛んで、12月には翌春の武道館公演が決まってた。クイーンのおかげで、女の子がロックを抵抗なく聴けるような下地ができていたんだと思います。

やっぱり、最初に聴いた時、日本で受ける要素はある、と思っていらっしゃったんですよね。

思ってはいましたけど、正直に言うと、ほぼ同じ時期にザ・クラッシュがデビューしているので、そっちに入れ込んじゃってて、チープ・トリック、いいんじゃないの的な(笑)。それがあれよあれよと武道館まで決まっちゃって、「大丈夫なのかな?」と。

福田先生(一郎氏:音楽評論家。故人)なんか、「やめさせろ!!」って(笑)。「アメリカで前座程度しかやっていない連中が武道館なんかできるわけない」と。でも、それくらい、日本の女の子たちの飛びつきは早かったし、『at 武道館』が売れたのは彼女たちのおかげですからね。あの子たちが「ギャーッ!」って言ってくれた歓声がアメリカでも受けて売れたんです。
彼女たちのなすがまま(笑)。日本で録音しようと思ったのは、ディープ・パープルなんかが先にやっていたこともあるけれど、そもそも日本の洋楽A&R は、音が作れないというコンプレックスがあるわけで。
唯一できることが、ライヴ・イン・ジャパンを作ることだった。
エアロスミスにも提案したけど断られてまして。チープ・トリックの場合は、女の子たちの記念品になればいいな、と思っていました。実際に作って出して、5〜6万枚売れたからいいやと思っていたら、年が明けてアメリカからバーンと注文が入って、そのうちにアメリカでもこれをリリースするとか言い出して。何が起きているんだ!?って思った。
結果、400万枚以上売れたわけだけど、僕の勲章はそのことじゃなくて、『ローリング・ストーン』誌が選ぶ《オール・タイム・ベスト・ライヴ・アルバム》(2015年4月公開)の13位に入ったこと。これ、すごくない!?(笑)

ストーンズ、M・ジャガーやフレディ・マーキュリーのソロなども担当されていますが……。

なんか、ノらないんだよね。別に俺がやらなくても宣伝マンが宣伝すれば売れるじゃん、みたいな。力が入らなかったよね(苦笑)。

自分で見付けて育てる楽しみを知ってしまったからでしょうか?

そうだろうね。80年代の半ば過ぎに、(ブルース・)スプリングスティーンの『ザ・ライヴ』というボックスが出たんだけど、同じ時にビースティ・ボーイズが出て来て全米ナンバー1になったんだよね。
で、「これしかない!」と思って、スプリングスティーンの担当A&R に「お前の宣伝費減らすぞ」って。「ダメですよ」「ダメじゃないよ。スプリングスティーンなんて、宣伝費使わなくても売れるだろ。ビースティに使うからな」って押し切って、宣伝費を回してダメだったの、全く(苦笑)。
ビースティのデビュー作は、「歴史を変える」と思えるほど衝撃だったんだけどなぁ。こうして失敗しているのもたくさんある。フリオの後にスペインのアイドルでミゲール・ボセというのがいて、これもお金かけたけどダメだったなぁ。ベイシティ・ローラーズの後のデッド・エンド・キッズもダメだった。

ビースティ・ボーイズ
『ライセンスト・トゥ・イル』

’86年発表

アイドルと言えばG.I. オレンジがいますね。彼らはまたビジネスモデルが違うんだけど……。

もともとシングル1枚しか出していなかったグループでね。音楽出版社にいたソニーの先輩がそのシングルを持ち帰り、「野中、これ契約しないか?」って。「いいですねぇ、アルバムないのか聞いてみましょう」って連絡したらマネージャーがいなくて、メンバーのカール(b)のお父さんと話をすることになってね。 そしたらお父さんとカール、日本まで来ちゃったの。まだやるともやらないとも言ってないのに来ちゃうんだよ。でも飲んで話しているうちに「じゃ、やろうか」みたいになって(笑)。でも、お金はそんなにないから、シングル盤に毛が生えた程度のアドヴァンスってことで3千ドルか5千ドルか払って、お父さんは何万ドルもかけてアルバムを作ってマスターを送ってきたんだよね。そしたらそれが売れちゃった。テレビ番組(『夕焼けニャンニャン』)とのタイアップやテレビ・スポットの仕掛けはしましたけどね。

G.I. オレンジ

『サイキック・マジック』
’85年発表

この頃から、ラジオはMTV になり、レコードはCD になっていきます。

一番大きな時代の流れはビデオ・クリップですね。MTV 的な番組が増えたのは大きいですね。外国の情報が早めに日本に到着するようになった。それと、海外のレコード会社(親会社)が、日本というマーケットを放っておかなくなってきた。今までは、ライヴ・イン・ジャパンにしても何にしても、自由にさせていたのが、「今年はこれをやりなさい」とか絡むようになってきたし、しめつけが厳しくなってきた。
それが80年代半ばで、MTVが盛り上がって来たのと、デジタル化が進み出してきたのと、ほぼ同じ時期だったと思う。そういう流れを僕は、面白くないと思っていました。

では、野中さんにとっての80年代とは?

<困惑と混迷>だね。仕事の面でも、個人的な生き様も、迷いに入っていた時だった。外から見たら好き勝手にやっているように見えたかもしれないけれど、’90年に居直るまでは実はそうだった。

インタヴュー・文 / 赤尾美香

野中規雄(のなか・のりお)

1948年生まれ。群馬県出身。’72年にCBS・ソニー入社。ザ・クラッシュをはじめ、数々の洋楽アーティストを手がけた。退職後は(株)日本洋楽研究会を設立。日本が培ってきた洋楽を後世に残そうと働きかけている。FM COCOLO 放送のラジオ番組『PIRATES ROCK』の制作も6年目に入っている。