Interview

ニッポンの洋楽の立役者たち A&R・野中規雄インタビュー①

ニッポンの洋楽の立役者たち A&R・野中規雄インタビュー①

野中規雄氏と言えば、チープ・トリックの『at 武道館』を作った男として有名なA&R で、エアロスミスのデビュー盤を発掘し、ジャニス・イアンやフリオ・イグレシアスを大ヒットさせた経歴の持ち主。1時間程度で終わるはずの取材は、気付けば2時間に。それほどにお話は面白く、熱のこもった語り口に引き込まれるのだ。音楽業界の現状や今後にも話はおよんだが、ここでは特集の主旨に沿って“日本洋楽”を作り続けたCBS・ソニー、及びEPIC・ソニー洋楽部時代のエピソードに焦点を絞ることにした。

洋楽はプロダクションないし、アーティスト本人もいない
だから、自分勝手に自由な宣伝ができた

CBS・ソニー入社が’72年でラジオの宣伝マンからお仕事をスタートされていますが、当時のラジオマンについて教えてください。

ヒット曲を生み出すメカニズムの中から言うと、あの頃は圧倒的にラジオなの。そして、それをフォローするのが音楽専門誌。と、専門誌に書いている音楽評論家の人たち。少し有線なんかもあったけど、若い人はみんなラジオを聞いていたから、ラジオで曲を流せばヒットする可能性が大きかった。特に深夜放送。東京で言うと、TBS、LF(ニッポン放送)、QR(文化放送)この3つはそれぞれに人気DJ で番組をやっていたから、そこにどうやって自分がプロモーションするシングル盤をかけてもらうか、その競争は熾烈だったね。

午後3時くらいからラジオ局回りを始めて、深夜0時頃に会社に帰って来て、人によっては、その後、ラジオ局にライバルがいなくなった時間を見計らってまた行ったりするわけ。それくらい、かけてもらえば売れたということ。

60年代後半から深夜放送が若者の音楽をリードするようになってきたから、ちょうどそのピークの頃に団塊の世代である僕たち、ラジオで育った僕たちが、ラジオを攻めるようになったんだね。

他社の宣伝マンとも交流は盛んだった?

レコード会社が元気だった。元気っていうことはお互いに競い合うってこと。

で、競い合っていた連中は今も友達。洋楽って、プロダクションはないし、アーティスト本人もいない、あるのはレコードと担当者だけ。だから、自分勝手に自由な宣伝ができた。邦題を付けたり、宣伝方法もいろいろ自分で考えて。他社でもそれは同じだから、競合会社というより、同じ環境にいる同士みたいになる。

夜までラジオ局回った後、家に帰ればいいのに、六本木の材木町にあった『スピークロー』というバーに集まって来る。深夜1時にもなると、レコード会社のA&R や宣伝マン、雑誌社の人や映画関係の人も。そういう人たちがコミュニティを形成して、有機的につるみながら文化を作る、みたいな。

例えば「グラム・ロックを仕掛けてみようか」ってことになると、そこにいるレコード会社や週刊誌、カメラマンなんかがアイデア出し合ってムーヴメントを先導していくわけ。

翌’73年には、A&R になられました。

そう。1年間、モット・ザ・フープルだけをやり続けた後がエアロスミス。洋楽A&Rって、海外から送られて来る新譜を聴いて、日本のマーケットに合うかどうかを選ぶバイヤーみたいな役割じゃない? 当時、ジャニス(・ジョプリン)、シカゴ、サンタナなんかは、前任者がいるから新譜は自動的にそちらに回るわけ。

モット・ザ・フープル
『革命』

’73年発表

新人アーティストでも、プロデューサーが有名だとか、社内的に推すものは、海外から早めに情報が来た段階で先輩A&R が担当を決めている。だから、新米A&Rは残ったものをやるしかない。輸入盤の倉庫に行って、日本盤化が見送られたものを1枚ずつ聴いてたの。百枚くらいあったかなぁ、それで発見したのが、エアロスミスだった。

デビュー作を見付けて、「ロックだわ、いいわ」と思ったんだけど、アルバム全部というより「ドリーム・オン」1曲にすごく惹かれてね。ただ、その時点での発売はしていなくて、2nd 作が届いた時、「これ、お前がやるって言ってなかったっけ?」って回って来て、『飛べ!エアロスミス』でリリースに至った。

エアロスミス
『野獣生誕』

’73年発表

日本のマーケットに合う、というのは、具体的にはどういうことでしょうか?

もちろんビルボード1位にはそれなりのステイタスがあるから気にするけれど……、僕はメロディと声質だね。ロックンロールでもバラードでも同じ。

『飛べ!エアロスミス』の帯に書いてあったタイトルは、筆文字ですよね?

そう。ジャケットの写真が、おとなしいんだよ。そのうちに僕もヒット作を出すようになると、帯の幅が広くなって、印刷の色数も増えて、金や銀になってくるけど(笑)、この頃は新米だからまだそんなことはできない。でも目立たせたい。基本はラジオマンだった時と同じ、いかにして自分が、自分の作品が目立つか、ですよ。

(笑)。帯にある情報も重要でした。

今なら世界中の出来事がネットですぐにわかるけど、あの頃の洋楽新人なんて、ジャケット見ただけじゃ何もわからない。だから帯の情報はより貴重だったよね。話がそれちゃうけど、邦題がなぜできたのか、という歴史的な話はいろいろあると思うんだけど、個人的には、邦題を単にカタカナ読みしただけのものにしちゃうと、目立たないでしょ。

エアロスミスなんて、『ミュージック・マガジン』の新譜紹介でも、せいぜい“その他の新譜”のちっちゃい枠なわけですよ。そうなったら、カタカナだらけの中で全然目立たない。ハード・ロックなのかフォークなのかもわからない。この中でなんとか人の目を引きつけるには、それっぽい日本語にしてわかってもらえるようにしよう、と思ったんだよね。

デビュー作なんて『野獣生誕』( 原題:Aerosmith)ですよ!! でも、知らない人が見たって、これがイージー・リスニングじゃないことくらいはわかるよね(笑)。エアロスミスは、2枚目がアメリカでそこそこ売れて、それが日本デビューになって、3枚目がアメリカでヒットして、その後で日本ではデビュー作を出しているから、プロモーションが途切れなかった。普通1年に1枚だったこの時代にあって、1年で3枚だからね。それと、クイーンが爆発してくれたのが追い風になった。

インタヴュー・文 / 赤尾美香

野中規雄(のなか・のりお)

1948年生まれ。群馬県出身。’72年にCBS・ソニー入社。ザ・クラッシュをはじめ、数々の洋楽アーティストを手がけた。退職後は(株)日本洋楽研究会を設立。日本が培ってきた洋楽を後世に残そうと働きかけている。FM COCOLO 放送のラジオ番組『PIRATES ROCK』の制作も6年目に入っている。