STAGE SIDE STORY〜エンタメライター 片桐ユウのきまぐれ手帖〜  vol. 14

Column

vol.14 言葉

vol.14 言葉

演劇、舞台をメインに執筆しているライターの片桐ユウが、芝居やエンターテインメント全般に思うことを綴っていくコラム。作品は人に様々な感情をもたらすもの。その理由やルーツを訪ねて飛び回ってみたり、気になった場所を覗き込んでみたり、時には深堀りしてみたら、さらに新しい気づきがあるかもしれない。“エンタメ”とのコミュニケーションで生まれるものを、なるべく優しく大切に。

今号は最終回。あらためて文字で記す「言葉」について。


「朕の言葉を受け取れ。朕の与えるやすらぎを受け取れ。お前の傷口に水を注いでやろう」
──アタウアルパ/『ピサロ』より(ピーター・シェーファー戯曲「ROYAL HUNT OF THE SUN」)

先日、アンコール上演が発表された『ピサロ』(PARCO PRODUCE 2021「ピサロ」)には、利己的な通訳者が出鱈目な通訳をして、スペインからの侵略者・ピサロ(渡辺謙)と囚われのインカ皇帝・アタウアルパ(宮沢氷魚)の関係を危うくさせる場面がある。
「言葉」は一触即発の事態を招くものだ。それが故意であれば尚更に。

その後、アタウアルパが「文字」なるものを知り、はしゃぐ場面もある。インカ帝国は文字をもたない文明だった。アタウアルパは新しく通訳を務めることになったピサロの小姓から、己の爪に単語を書いてもらって別のスペイン人に見せ、その人が「文字」(アタウアルパにとっては「記号」)から「言葉」を読み解くことに驚く。
「言葉」は人と人との間をつなぐものだ。……もっとも、ピサロ将軍は叩き上げ故に文字が読めない男だったため、アタウアルパの無邪気さがピサロにとっては余計に突き刺さる場面でもあるのだが。

ともあれ人にとって「言葉」を共有することは重要である。「言葉」の中には情報が詰まっているからだ。生活に必要な知識や名称といったものばかりではなく、人間が共に生きる時に必要不可欠となる感情や思考も詰め込まれている。「言葉」は、人間の関係性を保つために、とても重要な役割を果たしていると思う。

最近は音声や動画、専ら耳で聞くものが流行しているが、だからといって文字や文章といった目から読み取るものがなくなったというわけでもない。なので、最終回は文章を綴るコラムとして、「文字」で記す方の“言葉”というものを見つめ直してみようかと思う。

世界には文字があふれている。

「文字」の発祥を辿ると、紀元前何千年といった頃まで遡らねばならないらしい。その文字で書かれる記述は、天候など日々の記録や王朝の歴史に始まり、思想や学問、報告書や物語、宣伝文句と幅を広げながら、目的としては大凡「伝える」ためのものとして発達していった。

現在という時点においても、大衆に向けて書かれる新聞や各媒体、ターゲットを狙ったファッション誌や専門誌、創作物、社内向けの報告書、チームで共有するレジュメ、大切な人に宛てた手紙と、範囲は様々ながら「伝える」という目的はほぼ変わっていない。

誰に見せるつもりもない日記や呟き、目を通したらすぐに捨てて構わない走り書きのメモもあることはあるが、基本的に「書き記した」言葉というものは、「残すもの」としての使命をじんわり帯びているように思う。

紀元前に書かれたものから残っているわけだから、人類が所持する文章は増加の一方だ。

とは言え、失われたものも数え切れないほどあるに違いない。これまでに書かれた文章の内、今に至るまで残っているものの割合を数えることが出来たら1%にも満たないだろうなとは思う。
失われた文字や文章の貴重さは計り知れないが、それでも残されたものが地層のように積み重なっている様を知ることが可能で、更にそこから自分が欲するものを取り出し、目にすることが出来るという環境は、有り難いことこの上ない。

「伝えたい」と「知りたい」という人間の欲求がある限り、今日も世界は言葉であふれている。

当然、正義としての使命感によるものばかりではない。「伝えたい」という欲望に他の願望が絡んで、“盛っている”場合だってある。売れたい。売りたい。目立ちたい。混乱を招きたい。孤独から逃れたい。
言葉は嘘を付かないが、言葉を使う人間が嘘つきだったりもする。

「知りたい」という欲求は、下手をすると下衆の勘繰りになりかねない。好奇心は猫を殺してしまうと言うが、発信手段が発達して刹那的な徒党が組めるようになった状況では、好奇心は簡単に攻撃の色を纏い、時には醜い思い込みに姿を変えて面識すらない人でも平気で殺してしまう。

人を傷付けて良いわけはない。だが、傷付けたことを無かったことには出来ないし、無かったことにすることも良くない。過ちも人類の歴史。思考と試行錯誤の歴史だ。

「文字」で書かれた言葉は、本来は書いた時と変わらないから、変えられないから価値があるのだと思う。(とは言え、言葉の意味自体が変わっていく場合も多いので、書かれた当時の意味や意図を探ることも必須だが)

「文字」として、その時の物事や想いを留めた言葉たちは、人間そのもの、あるいは己の不変さに呆れたり、笑ったり、感動したり、絶望するための装置だと私は思っている。
その上で、ほんの少しだけ前進する勇気をくれるものだと思っている。

……そんなわけで、私には「文字」にする「言葉」は、「伝える」もの、そして「残す」ことをある程度見込んでいるもの、という感覚を持っていたので、3ヶ月後に全てのログが消えるのはやはり寂しい。
だが個人的な思いで残したいのであれば、それこそ日記に書き留めて机の引き出しに仕舞っておけば良い話であり、媒体の連載枠をいただいてすることではないのも重々承知している。

それに“言葉”そのものは共通認識を前提とした入れ物に過ぎないと感じる時もあり、実質の「文字」が「残る」かどうかということより、読んだ相手に「残る」かどうかの方が大事なのだという気もする。

このコラムは砂上の足跡と同じようにWEBの波に消えていくものだけれど、自分の足には歩いたという心地の良い実感が残っているので、無駄に綴ったという虚無感はない。
今はただ、短い間ながらこの連載に触れてくださった方々に感謝するばかりである。

皆様の人生がこの先、優しく温かい言葉であふれるものでありますようにと願ってやまない。

文 / 片桐ユウ

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