STAGE SIDE STORY〜エンタメライター 片桐ユウのきまぐれ手帖〜  vol. 13

Column

vol.13 歴史・予習・復習・是非

vol.13 歴史・予習・復習・是非

演劇、舞台をメインに執筆しているライターの片桐ユウが、芝居やエンターテインメント全般に思うことを綴っていくコラム。作品は人に様々な感情をもたらすもの。その理由やルーツを訪ねて飛び回ってみたり、気になった場所を覗き込んでみたり、時には深堀りしてみたら、さらに新しい気づきがあるかもしれない。“エンタメ”とのコミュニケーションで生まれるものを、なるべく優しく大切に。

今号は、作品の背景にある歴史や文化を学ぶ楽しさについて。


「まるかいて地球 まるかいて地球」
──『ヘタリア』より

何かの作品をキッカケにして、その周囲……歴史や文化などに詳しくなった、という人は多いのではないだろうか。

国の擬人化作品『ヘタリア』にハマった知人は“推し”に入国するため、何度も欧州に足を運んでいた。その国に行ってもキャラクターに会えるというわけではないのだが、その風土や民族性を直に感じることこそが知人にとっては大事なことだったのだ。

18世紀末のフランスを舞台にした『1789 -バスティーユの恋人たち-』からの19世紀始めの物語である『レ・ミゼラブル』、そこに『ベルサイユのばら』とミュージカル『エリザベート』の知識が加わって、約100年間のヨーロッパの歴史にのみ、やたら詳しくなったという知人もいた。

歴史小説や漫画作品、映画にドラマ、アイドルをキッカケに中国や韓国といったアジア圏の文化に親しみを覚え、食事やファッションを取り入れるようになった人もいるだろう。

日本の歴史では、和歌から平安時代に興味を持ったという人もいれば、ゲームから戦国時代にハマった人、小説で江戸時代の文化に目覚めた人、漫画によって幕末に夢中になった人と、数え切れないほどバリエーションがあるに違いない。

今自分が生きている時代・場所とは別のところの歴史や習慣、考え方などについて知識を深めていくことは、とても楽しくて意味のあるものだと私は思う。

人間生きていると様々な問題にぶつかる。すぐには解決できないものも多くて、かといって世界が“ひとつ”の価値観に集約することが正しいと思えないくらいには色々可視化されてきていて、とは言え「多様性」という言葉はまだ上滑りしている気がしてならない。

そんな中で、さらっと懸念や確執を飛び越えていく「エンタメ」には、やはり力を感じる。それ自体が目的ではなくとも、結果として「エンタメ」をキッカケにジワジワと相互理解が広がっていくことができれば、いずれ世界は“まるく”なれるのかもなあ、などと薄明かりのような期待を抱いたりもする。

……と、まあまあ壮大なことを願ったりもするし、歴史に関して言えば、歴史家の磯田道史先生が「歴史とは靴である」と仰るように、今をより良く生きるための実用品として“使っていくもの”という視点もとても大事だと思う。

しかし専門家ではない一介のライターが何か大きなものを取り扱おうとしても、扱いきれない可能性が高いので、ここからはあくまで一個人の感覚や思い出を語る。

単純に知らないものを知っていく、という作業は楽しい。

ここ最近は“聖地巡礼”として、ゆかりの地を気軽に訪ね歩くことは難しいものになってしまっているが、本や関連作品を辿ったりして知識を深めていくことは可能だ。

私は作品から派生する知識のラインにあまりにも偏りがあって、歴史や関連情報が穴ぼこだらけなので、最近スプレッドシートで「人物年表」を作ることにした。
好きな作品のキャラクターや歴史上人物の生涯をわかる範囲でまとめて、どの時代に誰が一緒に生きていたのかを把握するためである。

例えば、夏目漱石がロンドンに留学していたのは1900年からの2年間。とするとシャーロック・ホームズが探偵を隠退する1903年の直前だったのだな……といった感じ。ちなみにふたりが邂逅する作品は結構ある。

夏目漱石は実在の小説家。シャーロック・ホームズはコナン・ドイルの小説の創作人物であるから、実際はベイカー街ですれ違うことなど有り得ない。
だが「世界史」「日本史」「フィクション」と分けて覚えていた知識の接点を見つけることで、“当時”の雰囲気が立ちのぼってイメージ出来るようになる気がして、私は自分の知識の穴埋めのつもりでチマチマ作業を進めている。

そんな風に、今でこそ「史実」と「創作」の交流を楽しめているのだが、実は昔はバリバリの“作品至上主義”ともいえる思考の持ち主だった。
その物語は、その物語で完成されているもの。「史実では」「本来は」「実際は」という言葉が何よりも苦手で、知識や情報は作品を見る上で邪魔だとしか思えない人間だった。

単純に興味が無かったのか、集中や想像が削がれる気がしたのか。あるいは自分よりその作品について詳しい相手からマウントを取られるように感じて嫌に思ったのか。
今考えると、自分から興味が芽生える前にそれらの情報を与えられることは、その作品の世界そのものにまだまだ浸りたい自分の気持ちを、どこかで否定されるような気分になってしまうからだったかもしれない。「違い」を楽しめる程、心が育っていなかったという気もする。

「違うこと」が全て「否定」につながるわけではないし、またそうなるのは良くないことだとも思うのだが、この辺りは様々な問題に共通してデリケートだ。指摘する方も受け取る方にも、成熟さが必要なのかもしれないと思う。

話を戻すと、そんなわけでカッチカチの固定観念の所有者だったのだが、とある友人の言葉で、まるっとその考え方が変わった日があった。

十代のある日。アルバイト先の同僚だったその友人と上野周辺をぶらぶら散策していた。 メインの目的は忘れたのだが、上野公園に入った辺りで、ふと友人が「彰義隊のお墓にお参りしたい」と言い出した。

幕末に詳しい人ならばご存知だと思うが、彰義隊は戊辰戦争のひとつである上野戦争で新政府軍と戦った、江戸幕府側の部隊である。墓は上野の森美術館の近く、西郷隆盛銅像から見て裏手に位置する場所に建っている。

「おまいり」といえば自分の家の墓参りか、正月や七五三の参拝くらいしか印象になかった私は、血縁者以外のお墓に手を合わせたいという友人にビックリした。修学旅行先で有名な神社仏閣を訪れたことはあったが、自分にとっては「行事」の一環だったので、個人で歴史上の誰かにお参りするという発想がなかった。

興味本位で真似するのも気が引けたので、とりあえず私は敷地内から一歩離れた場所で、静かに手を合わせる彼女の後ろ姿をぼんやり見ていた。

その後、友人は上野の山を歩きながら彰義隊のエピソードをアレコレと話してくれた。彼女は、ゴリゴリの“幕末オタ”だった。
今はインターネットの情報も増えていて検索すれば分かることも多いが、当時は学校の授業で語られる内容の他は、自ら書籍や資料を調べた一部の人たちのものだったから、上野戦争が朝7時に始まって夕方5時には終結したという話に、とても驚いた。

「そんなに戦力の差があるのに、どうして戦ったの?」と尋ねる私に、その友人は「勝てると思っていたんだよね……」と遠い目をして呟いた。

それが真実かは分からない。けれど、その時の友人の口調があまりにも真に迫っていたので、「コイツ、本当は過去からタイムスリップしてきた当事者なのでは?」と一瞬、真面目に疑ったことを覚えている。

そして歴史小説や幕末ドラマといった関連フィクションの数々を愛しつつ、当時の人間が乗り移ったかのように、その時代そのものについて熱く語る彼女のことが、たまらなく羨ましくなった。

私が知らないことを知っている彼女には、私には見えないものが見えていて、
私には感じ取れないことを感じることができているのだと思った。

歴史を知ると“今”の解像度や“作品”の理解度が高くなるのではないかと思った。

それまで敬遠していた「史実」や「実際のところ」がにわかに気になりだし、好きになった作品の背景とされるものは、自分なりながらポツポツと探し求め、拾い上げて見つめ、知識として収集するようになった。

そうして徐々にではあるが、様々な視点から歴史を見る楽しさを知った。残された記録や僅かな情報を起点として、想像の世界を広げていく創作の世界の素晴らしさも、より知ることができたように思う。

あの上野の日がなかったら、刀剣が刀剣から見た歴史を語る“ものがたり”も、新選組の隊士と鬼の末裔である少女が出逢うロマンスも、そもそも2.5次元といった原作から派生していくメディアミックスすら、自分は受け入れ難いままだったかもしれない。あらためて、その友人には本当に感謝している。

こうして調べ物にすっかりハマったわけだが、歴史や文化について調べ続けていると、たまに作品を見る時に知識が邪魔をする場合も正直、ある。
もちろん実際に当時のことを見聞きしている人はいないし、何より時代考証をするためにエンタメ作品を見ているわけではないので、そこに伝えたいものや面白さを見いだせれば良い話だと思っている。思っているのだが……と頭を抱えることも、ある。
そんな時は、予習し過ぎた自分を呪うしかない。

ただ、基本情報や「正史」を知っているからこそ「諸説」の面白さやアレンジが際立って見えることもあるし、そういった知識が作り手と通じている場合などは、さり気なく入れ込まれるコアな情報にハッとして、ニヤリとするような瞬間もある。
自分ひとりでは気が付かない情報も、今は自分よりもっと詳しい人が教えてくれる場があるため、復習することが楽しくなる作品も多い。また新たな知識が加わって、興味は広がるばかりだ。

もちろん予習・復習は必須ではないし、背景を踏まえずに作品そのものを見ることにも、他では得難い楽しさがある。楽しみ方の違いは違いとして、それぞれが一番好きな方法でエンタメを楽しめることが大事なのだと思う。

知識や情報は扱い方や受け止め方に気をつけなければならないもの。そして、まだまだ知らないことばかりで、知っている僅かなものすら上手く扱えてはいないということも、忘れてはいけないと思っている。
けれど今は、見ようとも知ろうともしなかった頃より、人生が楽しい。

文 / 片桐ユウ

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