横川良明の演劇コラム「本日は休演日」  vol. 37

Column

舞台『フェードル』には、人間を見る楽しさがつまっている

舞台『フェードル』には、人間を見る楽しさがつまっている
今月の1本:舞台『フェードル』

ライター・横川良明がふれた作品の中から、心に残った1本をチョイス。独断と偏見に基づき、作品の魅力を解説するこのコーナー。
今月は舞台『フェードル』をピックアップ。欲望と嫉妬が交錯する愛憎劇の魅力について語ります。

※今回のコラムでは物語上の核心部分について言及します。内容を知りたくないという方は、ご注意ください。

舞台は、怪物たちが暴れ回る場所

演劇を観る楽しさは、人間を見る楽しさにあると思う。

私たちの中にある、ねじれ曲がった愛と欲望。牙を剥いた瞬間、立ち所にすべてを喰らい尽くしてしまう怪物のような巨大な感情。自らの深淵にその気配を感じ取りながら、私たちは獰猛な魔物に首輪をし、平静を装って日常に溶け込んでいる。

けれど、舞台の上では、怪物が首輪を外して野蛮に暴れ回る。狼のように吠え、虎のように唸る。自分もこんなふうに赤裸々に感情をむき出しにしてみたい。だけど、社会の秩序がそれを許さない。だから、舞台の上であらゆる枷を外して感情をぶちまける人たちを見ると、胸が沸き立つ。口の中が渇くような興奮に震えながら、魂を浄化されたような気持ちになるのだ。

『フェードル』もそんな舞台だった。

アテネ王・テゼの妻として何不自由のない暮らしをしていたフェードル。しかし、その血筋に恨みを抱く恋の女神の差し金で、ある日、突然フェードルは恋におちる。相手は、義理の息子のイッポリット。我が子を王位に就かせるために長らく迫害し続けてきた先妻の子に、あろうことか恋をした。フェードルはその罪の重さに押し潰され、死に瀕していた。

けれど、行方不明だった夫・テゼが死んだという報せが、状況を一変させる。乳母のエノーヌに唆され、フェードルはイッポリットの前で想いを口にする。母という羽織物を脱いで、女の肌をあらわにするフェードル。そして、その禁じられた告白が、王家の運命を急転させていく。

神の血を引く王妃でありながら、俗っぽいのがフェードルの魅力

ギリシャ悲劇に出てくる登場人物は、どうしようもなく人間臭い。『フェードル』は、人間の坩堝のようなところがある。

たとえば、主人公のフェードルは実に感情豊かな女性だ。イッポリットへの恋情に溺れ、我を失い、恥辱に震えながらも、一度封を解いたら、あつかましいほどに強引に迫り、頬を赤く染めて歓喜する。恋をしたときに、人間の中に生まれる感情のすべてを、短い時間でフェードルはすべて見せてくれる。

ひた隠しにしていた恋慕をイッポリットに明かした途端、まるでフェードルは少女に返ったようになる。頑ななイッポリットに押し迫り、どうすれば恋を知らぬイッポリットの心を手に入れられるかエノーヌと策を練るさまは、放課後の女子中学生のようだ。そして、テゼが生きて帰ってきたと知ったときの錯乱ぶり、ふた言目には死を欲する起伏の激しい性分は、“病み系”なんて言葉がファッション化している現代人の恋愛気質と何も変わらない。太陽神の血を引く王妃なのに、いつの間にか彼氏が変わるたびにメアドが変わっていた、学生時代の女友達を見ているような気持ちになる。

そんなフェードルの激情は、イッポリットの心が逆賊の娘・アリシーにあると知り、夜叉へと変わる。自分に心が向かないことは、悲しいけれど受け入れられる。だけど、他の誰かを見るときだけ、その眼差しに恋の火が宿るのは許せない。客観的に考えれば、勝手極まる言い分だけど、“わかりみ”となる人も多いはずだ。王妃なのに、なんとも俗っぽい。だから、フェードルは人を夢中にさせる。

対するイッポリットも、普遍性のあるキャラクターだ。王の跡取りとして大事に育てられ、惚れっぽい性格の父を見てきたイッポリットは、恋愛感情に対して憎悪に近いものを抱いていた。恋の道を忌避し、ストイックに生きてきたプリンス。それが、逆賊の娘に恋をした。

真面目で堅物のイッポリットもまたこの想いを決して口にしてはならぬと誓い、アリシーから背を向けようとする。けれども、その身を焦がす恋の炎が、秘密の牢の鉄格子を溶かした。恋の罪と恥に絡め取られているという点では、フェードルとイッポリットは合わせ鏡のような存在だ。

エノーヌの謀りによって追いつめられたイッポリットは、アリシーと共に国を捨て逃げることを決意する。禁じられた愛の行く末は、神話の時代から逃避行と決まっている。けれど、悲運の王子にはさらなる悲劇が降りかかる。正しいはずの人間に、罪のないはずの人間に、最も残酷な運命が強いられるのも、現代と同じ。イッポリットの人生もまた、決して抗うことのできない激流に翻弄される非力な市井のひとりを思い起こさせてくれる。

テゼとエノーヌに見る、権力者と労働者の哀れな末路

さらに人間の見本市としての面白さを倍増させているのが、テゼとエノーヌの存在だろう。テゼの面白さは、信じる者を間違えた人間の哀れさにある。エノーヌの甘言に取り憑かれたテゼは最愛の息子を追放し、その裏切りに裁きの鉄槌がくだるよう神々に祈る。だが、嘘をついていたのはエノーヌの方だと知り、慌ててイッポリットを呼び戻すように命じる。しかし、一度口からついて出た言葉は消すことができない。

これまで数々の怪物を倒してきた英雄テゼも、己の中にある嫉妬という怪物には勝てなかった。どんなに偉大な業績を誇っていても、どんなに権力を有していても、人はみな間違える。現代でも、政治家や経営者など、権力を持てば待つほど、取り巻きの策略に乗せられ、道を踏み外すことはよくある。あんなに大きかったはずのテゼの姿が、ラストシーンはやるせないほどに小さく見えた。テゼは、寄る辺を失った権力者の象徴だ。

その対となるのが、エノーヌだと思う。乳母として生涯をフェードルに捧げたエノーヌは、現代の言葉で言うところの“企業戦士”だろうか。会社に忠誠を誓い、粉骨砕身で働くサラリーマン。今では絶滅危惧種となりつつあるけれど、かつてこの日本にはモーレツな“企業戦士”がたくさんいた。

だが、どんなに献身的に働いても、トップの機嫌ひとつで首が吹っ飛ぶのが“企業戦士”のさだめだ。上司の代わりに責任をとらされ、左遷や失職の憂き目に遭う人も多い。たとえそこで「今まで会社のためにどれだけ自分が身を犠牲にしてきたか」と恨み節を述べても聞く者はいない。エノーヌの末路に、労働者たちの失意と怨嗟の呻きが聞こえてくるようだった。

誰に焦点を置くかで、見え方ががらりと変わる。少ない登場人物ながら、愛憎が色濃く渦巻く『フェードル』は人間の縮図だ。そして、その結末があまりにも悲劇的だからこそ、こうして長きにわたって多くの観客の心を射止めてきたのだろう。

実力者たちが演じる、愚かで、哀れで、愛しき人間のドラマ

その『フェードル』を華と実力を兼ね備えた俳優陣が演じることで、生々しくも艶やかな愛憎劇へと昇華させていた。

フェードル役は大竹しのぶ。演出の栗山民也が「フェードルを演じるのはこの人しかいない」と熱望したキャスティングだけに、その役への取り憑き方は恐ろしさすら感じるほどだった。

大竹しのぶのフェードルからは、体の内側で蠢く情念が炎となって目に見えるようだった。恋の炎に焦がれるというのはひとつの常套句だけど、あれだけ本当に肌がただれるほどに身が焼けるさまを表現できる役者は、そういない。芽生えた恋という感情に胸がかきむしられるのも、愛する人を前にして舞い上がってしまうのも、嫉妬の感情に全身の血が凍るのも、ありありと大竹しのぶは見せてしまう。

声が、形相が、一瞬で変わる。その小さくて細い体に、この人はどれだけの聖女と鬼を棲まわせているのだろう。それでいて、カーテンコールでは少女のように舞台上を駆け、まるで「一緒に演劇をつくってくれてありがとう」と言わんばかりにうれしそうな顔で観客に拍手を送る。「演劇の神様に愛された」という修辞も使い古された言葉だけど、きっと大竹しのぶのような役者のことを、「演劇の神様に愛された」と言うのだろうなと改めて思い知った。

林 遣都は、苦悩がよく似合う。アリシーへの想いに身を引き裂かれる顔。目の前でフェードルから想いを告げられ、おぞましいものを見たかのようにわななく顔。全編をわたって貫くイッポリットの悲劇性を、林 遣都の懊悩が際立たせる。

特に印象的だったのが、父・テゼと対峙する場面だ。エノーヌの策にかかり、妻と息子が不義密通を交わしたと思い込んだテゼは、イッポリットを激しく罵る。剣を突き立て、怒り吠える。心臓に刃を立てられたような緊張感の中で、イッポリットは自らの本心を父に告白する。フェードルが、テゼが、次々と恋に正気を失っていく中で、最後までイッポリットは気高い。その高潔さが、胸を打つ。

初演のとき、栗山民也はイッポリットという役を「すっと立ってる存在だけで美しさが感じられなければダメ」と語っていた。この条件を、林 遣都はにじみ出る高貴さで見事にクリアしていた。ギリシャ悲劇特有の長い台詞も、音韻の美しさを守りながら、感情を色彩鮮やかに乗せる。台詞に力強さがあり、戯曲のエネルギーに負けていなかった。今後もぜひ多くのギリシャ悲劇をはじめとした古典劇に挑戦してほしい役者だ。

キムラ緑子は初演からの続投組。初演から引き続き出演するのは、大竹しのぶ、キムラ緑子、谷田 歩の3人だが、谷田が初演から役が替わっていることを考えると、初演から役ごと続投となるのは、タイトルロールの大竹と、キムラのふたりだけ。その事実が、キムラ緑子のエノーヌの魅力の証明となっている。

大竹しのぶの迫力に負けない存在感。それでいて、どこか滑稽さを漂わせているのがキムラ緑子のエノーヌだ。通俗的な雰囲気を持ちつつ、フェードルを巧みに後押しするしたたかさも感じさせる。そんな軽妙さがあるからこそ、最後の退場シーンに、体が空っぽになるような虚無を見た。

テゼ役の谷田 歩の堂々たる貫禄も忘れがたい。真髄は、息子の裏切りを知ってからの発狂ぶりだろうか。こめかみが軋むような憤怒を、全身で表現する。体内で胃が焼けているのが透けて見えるようだった。テゼの登場から一気に物語のギアが上がったのも、谷田の好演があってだと思う。

『フェードル』を観ながら、人間はなんて愚かで、哀れで、愛すべき生き物なんだろうと思った。実力派の俳優陣と手練れのスタッフたちで紡がれる至高の時間。現実の煩雑さを忘れ、その贅沢なひとときにしばし酔いしれる。舞台『フェードル』は、そんな演劇を観る楽しさを教えてくれる1本だ。

舞台『フェードル』

東京公演:2021年1月10日(日)~1月26日(火)Bunkamura シアターコクーン
金沢公演:2021年1月30日(土)~1月31日(日)金沢市文化ホール
愛知公演:2021年2月6日(土)~2月7日(日)刈谷市総合文化センター 大ホール
兵庫公演:2021年2月11日(木・祝)~2月14日(日)兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール
静岡公演:2021年2月20日(土)~2月21日(日)三島市民文化会館・大ホール

演出:栗山民也
作:ジャン・ラシーヌ
翻訳:岩切正一郎

出演:
フェードル役:大竹しのぶ
イッポリット役:林 遣都
アリシー役:瀬戸さおり
テゼ役:谷田 歩
テラメーヌ役:酒向 芳
パノープ役:西岡未央
イスメーヌ役:岡崎さつき
エノーヌ役:キムラ緑子

オフィシャルサイト
オフィシャルTwitter(@phedreJP)

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