佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 173

Column

石原裕次郎と渡哲也の出会いから始まった、映画体験の原点をたどる不思議な旅

石原裕次郎と渡哲也の出会いから始まった、映画体験の原点をたどる不思議な旅

映画とテレビで様々な作品を残してきた株式会社石原プロモーションが、2021年の1月16日に解散することが発表になった。

そのタイミングで、娯楽映画研究家の佐藤利明さんが監修・執筆した週刊朝日ムック「映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也」が、12月16日に発売された。

さっそく手にとってみたムックからは、ぼくが想像した以上に感慨深い思いが湧きあがってきた。

そして渡哲也さんが亡くなってから、まだ3か月と少ししか経っていないことに、いささかたじろいでしまった自分にも気づいたのである。

今年はコロナウィルスによる感染の影響によって、生まれてきて初めての体験にさらされてきた。

そのためなのか、どことなく現実感が薄いまま、社会の出来事がベールの向こう側で起こっているように感じてしまうことも多かった。

渡哲也さんがもういないということが、今もなかなか理解できないままなのだ。

たくさんの写真が掲載されたムックを読み始めて気づいたのは、石原裕次郎という人物が「自分が納得する映画作りをしたい」という決意のもとに、ただの役者で終わることなく、映画人として生きることを目指したのが、28歳の時だったという事実だった。

裕次郎さんはまだ十分に若かった。

1956年に映画界にデビューした裕次郎さんは、1年もしないうちに日本を代表するスターになり、映画という夢に向かって全身で挑んでいった。

そのときぼくは小学5年生だったので、そうした挑戦については何も知らなかったし、映画の世界にもまだ関心が向いていない状態にあった。

それでも裕次郎さんについてはすっかり忘れたままだった子どもの頃の大事な記憶を、ムックから触発されて取り戻すことができた。

生まれて初めて岩手県の田舎町にあった映画館で、裕次郎さんの映画を見たのは小学二年生の時だった。

岩手県盛岡市の南に位置する矢巾町の「矢巾映画劇場」という小さな小屋で、嵐の日を舞台にしたアクション映画を見た記憶がよみがえったのだ。

ただし、タイトルも、物語の内容もまったく覚えていなかった。

いや、最初から何も知らなかったのだろう。

それなのに大型のムックを手に取って写真を眺めていると、若々しい裕次郎さんのアクションと、生き生きとした表情が嵐のなかの映像シーンを思い出した。

主演映画104作品のポスターは大半が掲載されていたので、記憶をたどって順に見ていくうちに、激しい雨に打たれながらの乱闘シーンから連想して、『風速40メートル』だったかもしれないとあたりをつけた。

そこでYouTubeで動画を検索したところ、映画のシーンをいくつかつないだものが見つかった。

60年ぶりくらいで目にした映像だったが、記憶の底に埋もれていた作品の可能性は高いと思えた。

こうして忘れていた思い出を自らたどる、不思議な旅が始まったのである。

『風速40米』はデビューから2年が経った1958年に公開された、通産24作目の裕次郎映画だった。

資料によれば同名の主題歌もヒットしたらしいが、ぼくは何ひとつ覚えていなかった。

いずれにせよ1958年の夏に封切られた作品だということは、ぼくが観たのはその1年後だろうとも思った。

当時は都市部と田舎ではそのくらい、タイムラグがあったのである。

おそらくは母の実家に帰省した際に、年上の従姉妹たちに連れられて、わけもわからず映画館に行ったに違いない。

それにしても台風の直撃による強風の中で、びしょ濡れになりながら大立ち回りを演じた裕次郎さんのアクションが、記憶の奥底に残っていたのだから、そのことにも驚かされた。

父親に連れられて観ていた東映のチャンバラ映画とは全く異質で、リアリティのある現代劇に出会ったのが、石原裕次郎の主演作品だったとわかったのだ。

今になって考えてみれば、かなり運がいいことだったと思える。

しかし裕次郎さんはその頃からすでに、大人の世界の人だったきがしたので、ぼくにとってのスターにはなり得なかった。

1958(昭和33)年は、映画の観客動員数が11億2,745万人となって、史上最多となる記録を樹立したエポックメーキングな年だった。

日本人の娯楽の王様として君臨していた映画は、まさに黄金期を迎えていたのである。

しかし頂点をきわめたら、その後は落ちるだけだ。

テレビが急速に普及したことから、黄金時代の日活映画はわずか10年後に、あっけなく終焉を迎えることになる。

ぼくは小学生の高学年からひとりで、こっそり映画館に通うようになった。

そして同じ日活でも女性路線で、吉永小百合が主演する青春映画を観始めた。

彼女の役どころは年相応に高校生くらいだったので、憧れの女性としてブロマイドを買ったりもした。

その一方では1962年に植木等が主演するピカレスクロマンの『ニッポン無責任時代』を見て、クレイジーキャッツの映画にも夢中になった。

まだ小学6年生だったが、そこで完全に映画というものに目覚めて、社会人になるための教科書だと思ったのだ。

当時住んでいた仙台市内には名画座と青葉劇場という、洋画の旧作を上映する映画館があったので、『禁じられた遊び』とか『大人は判ってくれない』『道』『太陽がいっぱい』といった、ヨーロッパの作品を欠かさずに見ていた。

大人になるということの意味を、映画から必死で吸収していたのだろう。

高校に入ってからは野球に打ち込んでいたので、体力的にも映画を見る時間がまったくなくなった。

ところが夏の合宿が終わった後に肺炎をこじらせて、2ヶ月ほど入院したことから、進学校の中で落ちこぼれになってしまった。

そのために高校のニ年生からはドロップアウトして、ほとんど授業を受けなくなったことで、その後の人生が決まっていった。

朝のホームルームで出欠を取った後は、図書館に通って本を読み、午後から映画館に通うようになった。

渡哲也の映画を見たのはその頃のことで、出演作品のポスターを見ていくと、最初は舛田利雄監督の『無頼より 大幹部』だった。

それが1968年だったから、時期的には裕次郎映画の体験からちょうど10年が過ぎていた。

そこで凋落しつつあった日活を懸命に支えていたスターが、渡哲也だったのはきわめて示唆的である。

そして『無頼より 大幹部』の少し後になって、続編として作られた『大幹部 無頼』も見たのだが、ぼくはこの作品で渡哲也という俳優とほんとうの意味で出会ったと思った。

1968年4月の封切りだった『大幹部 無頼』は仙台市内の大学病院前にあった、コニー劇場という小さな三番館で見た。

それはは春から夏にかけてのことだったと思う。

目つきが鋭くて短い匕首(ドス)を持った若者を演じる渡哲也に魅せられて、ぼくは第3作の『無頼非情』と第4作『人斬り五郎』まで、続けざまに観たような記憶がある。

それらの作品に強く惹きつけられたのは、常に身体を張って全身で演じるアクションに、その時代ならではのリアリティが感じられたからだった。

文芸別冊として先ごろ出版された『渡哲也昭和の映画俳優 ”仁義の栄光”』の中で、映画監督の澤田幸弘さんが寄稿した文章には、過酷とも言える撮影の現場のことがスタッフの立場から、ていねいに語られていた。

映画の最後にどぶ川で乱闘になるシーンがあり、渡哲也が仇敵の内田良平と深江章喜を追いつめて、3人は決着がつくまで戦う。

それが異様なリアリティをともなっていたのは、何のごまかしもない映像が、次から次へと展開していったからだった。

この映画は小澤啓一の初監督作品であり、かなり気迫がこもった作品になっていた。

ロケハンに行った時に、監督が「ここでやる」と言ったのは、神田川だったが、当時は汚くて不潔などぶ川そのものだった。

助監督として裏方を仕切っていた澤田監督のコメントには、撮影前に慈恵第3病院に行って関係者全員で、破傷風の予防注射を打ってもらったとあった。

あのどぶ川の中でドスで体ごとぶつかり戦う、泥水で衣装と顔もずぶ濡れになる。それでも、三人とも汚れに耐えて戦っている。僕は軽トラックに積んできた消毒剤のミヨウバンを川上からスコップで撒いていました。川の中にいるスタッフたちは泥水が撥ねてもいいように、漁師がする胸まである長靴を履きました。だから、スタッフはまだいいんですが、俳優はたまらない。汚物が流れてくるんですよね。これが役者たちに流れて行ったら大変だというので、僕はミョウバンの白い粉をぼんぼんぼんぼん投げ込み、川上のスタッフたちは汚物が俳優のほうに行かないように網で掬って取り除く、それが一日中ですよ。

リアリティを要求する監督の演出に対して、渡哲也は常に全身で応えていたという。

それが日活の期待を背負って「第二の裕次郎」として売り出された、映画俳優としての矜持でもあったのだろう。

その一途な姿勢に共感した澤田監督は、自分が監督になったときには渡哲也で映画を撮るのだと決めたという。

小沢さんも「あの時の渡さんには感謝する」と言っていました。どんな注文でも「ハイ、わかりました」と監督の要求には、生き生きと演じました。僕は渡さんなら、どんな過酷なカットでも取れるんだとわかって最初の作品は渡さんと決めました。
(『渡哲也 昭和の映画俳優”仁義”の栄光』河出書房新社)

しかしぼくはまだこの段階で、渡哲也の本当の魅力には出会っていなかったと思う。

だから大学に合格して東京に出てきてすぐに、仙台で見逃していた『東京流れ者』と『紅の流星』を、池袋の文芸坐へ見に行った。

そしてはにかむように笑って軽口をたたく、もう一人の渡哲也に出会ったのである。

翌1971年にはアクション映画の傑作『紅の流れ星』を見て、その年にベストワン作品に推したくなったほど気に入った。

そんなふうにして好きになった渡さんとお目にかかることができたのは、音楽業界に就職してから三年目のことだった。

「くちなしの花」がヒットした後のことだったと思うのだが、40分ほどの時間をいただいて、取材をセッティングしたところに立ち会わせてもらったのである。

そして趣味がひとりで焚火をすることだという話を聞いて、さらに尊敬の念を抱いたことを覚えている。

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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