STAGE SIDE STORY〜エンタメライター 片桐ユウのきまぐれ手帖〜  vol. 10

Column

vol.10 パンでもごはんでも

vol.10 パンでもごはんでも

演劇、舞台をメインに執筆しているライターの片桐ユウが、芝居やエンターテインメント全般に思うことを綴っていくコラム。作品は人に様々な感情をもたらすもの。その理由やルーツを訪ねて飛び回ってみたり、気になった場所を覗き込んでみたり、時には深堀りしてみたら、さらに新しい気づきがあるかもしれない。“エンタメ”とのコミュニケーションで生まれるものを、なるべく優しく大切に。

今号は間もなく開幕する「年末“祭”シリーズ」に寄せて。


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──ルイケ/『ウエアハウス-double-』より

る・ひまわり企画・製作公演の「年末“祭”シリーズ」最新作、チャオ!明治座祭10周年記念特別公演『忠臣蔵討入・る祭』が、12月28日(月)より幕を開ける。

芝居、殺陣、ダンス、歌、時々一発ギャグ……と、てんこ盛りの内容を、ベテラン俳優からフレッシュな若手俳優、小劇場出身者、宝塚歌劇団出身者、ミュージカル俳優、お笑い芸人……と、これまた盛りだくさんのキャストが集結して盛り上げる。度々「異種格闘技戦」と表現されるのも納得の山盛りお祭り舞台だ。

人数は例年より少なめではあるが、第一部が歴史上の「IF もしも~」を描いた芝居であるところや、第二部では様々な流行モノへのリスペクトを込めた「ショー」が行われることは変わらず。
「年末は“る・ひまわりの祭”で過ごす」と恒例になっている方や、毎年の暮れを思い起こすタイムマシーン、あるいは1年の総決算として観劇する方も多くいらっしゃることだろう。

この“お馴染み”感は、いろいろなことがあった2020年の年末公演だからこそ守ろうとしたものではないだろうか。上演決定の際、<祭シリーズを応援してくださる皆様へ>として「る・ひまわり」が公開したメッセージからも、この状況下での開催に強い覚悟があったことが覗える。

大きな想いを“背負う”W主演を務めるのは、平野 良と小林且弥。ますます期待が高まる。

このふたりといえば、2020年の1月。新国立劇場小劇場で上演された『ウエアハウス-double-』にて、ヒリヒリした二人芝居を見せてくれた役者である。

2020年、観劇の機会がグッと減ったという事情とは関係なく、年始早々ガツンと殴られ、その衝撃が1年間離れなかった舞台だ。

今回は、その感想を『忠臣蔵討入・る祭』への密かなエールとしたいと思う。


『ウエアハウス-double-』は、鈴木勝秀がエドワード・オールビーの戯曲『動物園物語』を基にして長年練り上げ続けている密室会話劇。

様々なスタイルで上演を重ねているが、2020年1月の舞台で登場した人物はふたり。
ヒガシヤマ(平野)とルイケ(小林)だ。

物語は、ヒガシヤマが取り壊しの決まった教会の地下にある“憩いの部屋”で、ひとりアレン・ギンズバーグの長編詩「吠える」を暗唱しているところから始まる。
彼は詩や小説、戯曲などを暗唱するサークルに参加しており、未だ一度も披露したことのない詩の練習を繰り返していたのだ。

そこにふと、ルイケと名乗る男は現れる。一言目の挨拶から何気ないハズの自己紹介さえ、ふたりの会話はどことなく噛み合わない。
ぎこちなくも他愛もない会話をしてその場をやり過ごそうとするヒガシヤマだが、ルイケの追求は徐々に逃れられないものとなっていく……。

ごくシンプルな舞台空間の中、最後の最後まで緊迫感を高まらせ続ける鈴木勝秀の脚本・演出も恐ろしかったが、役者ふたりの存在感がとにかく怖くて怖くて、なんならチビるかと思った。

この“存在感”は舞台上で目を引くという意味ではなく、もっとリアルな感触を伴う方の“存在感”だ。
ふたりの演じた人物、ヒガシヤマとルイケが、その人生丸ごとこの世界に存在したかのような、いや今もどこかで存在しているかのような、生々しい錯覚をこちらに刻み付けてくる力量に圧倒された。痺れた。

犯罪現場に偶然居合わせてしまったかのような怖ろしさと気まずさと後味。終演後には「物語を見届けた」という浮遊感よりも、ずっしりとした“目撃”の実感が残った。

なのに、また見たい。ずっと見続けたい。
そんな中毒性を抱かせてくれたふたりの芝居だった。

平野 良と小林且弥、ふたりの持つ独特の雰囲気や個性が融合して生まれた、あの空気の濃度だったのかもしれない、と勝手ながら分析している。
脚本・演出が役者の持ち味に寄せていく方向性ということもあったのではないかと思うが、せっかくなので、それぞれに感じた魅力を私なりに述べていきたいと思う。


まず、小林且弥が演じるルイケ。
“不審者だと思われる男”の様が凄まじかった。

彼は「不審者そのもの」ではなく、「第三者から見たら不審者だと思われるであろう人物」を演じていた。だって様子がおかしい、と思われる人間には大抵、自覚症状がない。

これは私自身が「『私、変わっているんだよね~』と自己申告する奴ほど“フツー”である理論」の持ち主、ということもあるが、変わっていると思われている人間ほど、逆に自分自身のことはごく普通だと思っているケースが多いと思う。ルイケのように記憶力が抜群で、円周率100桁が余裕で言えるとしても。

その至って“自然体”の様子がリアルで、だからこそ不穏だった。

『ウエアハウス-double-』は「不条理劇」であるように見えて、ルイケからすれば不条理ではない。舞台上にはシン・ゴジラのごとく唐突に現れるにしても、ルイケ本人の中では絶対に筋道が立っているからである。

傍からは「妙なスイッチ」が入ったように見える突発的な言動と、ひたひたといつの間にか迫っている満潮のような感情の渦。その両方がルイケを得体の知れない存在だと感じさせる一方で、純粋で孤独な、脆いひとりの人間としての物悲しい印象が一貫して流れていた。

ただクライマックスだけは、もしかしたら全てはヒガシヤマの幻影ではないかと思うほど、ルイケには神々しさがあった。既に壊れてしまった破片の中をうろついているような危うさと、奇妙な包容力。長引く影みたいな余韻が美しく、その美しさがまた怖かった。

ちなみに小林且弥を最初に「怖ぇええええ!!!!」と思ったのは、8年前。青山円形劇場で上演されていた『FUNNY BUNNY ―鳥獣と寂寞の空―』の時である。

この時も、行動理由が後半まで明かされない不穏な役だったように記憶しているが、印象的だったのは過去が明かされてから。
小林が演じる役の、親友だった少年が残した形見のダンベルを見つけた直後の姿だ。その親友はイジメ被害の末に自殺しており、彼の形見を小林の演じる役はずっと探し続けていた。物語の末にようやく見つけたそのダンベルを手に取り、ジッと見つめ、彼は、ふらぁ……と、体の向きを変えた。

その瞬間、「あ、復讐に行くんだな」と解ってしまった。
親友を追い詰めた相手を、そのダンベルで、と。

確実に意志を備えているハズなのに、何か別の力に動かされたかのごとく、あの長身がふわぁ……と振り向いた瞬間。何かを見据えた眼差し、ダンベルを握る手、有無を言わせない空気。

言葉ではなく、起こす行動そのものでもなく、「予兆」で震わせられた。
今でも思い出すと鳥肌が立つ。

ただ、恐ろしい印象ばかりではない。役者なんだから振れ幅があって当たり前、と鼻で笑われてしまうかもしれないが、小林且弥はダークにも柔らかくもなれるからすごいのだ。

例えば小林が白いシャツを着てイスに腰掛けており、その前には机があるとして、彼の手元は机に阻まれていて見えない図があるとする。彼がその手に何かを隠し持っているとすると、それは何か。
ナイフでも拳銃でもアリだと思うが、小さな花束や指輪の入った小箱でもイイと思えるのだ。

そんな風に、「予知」あるいは「余地」を感じさせることができる雰囲気を持っている。どこにでも馴染めて、どこにも馴染まない佇まいを持っている俳優だと思っている。


そしてヒガシヤマを演じた平野 良。
ヒガシヤマは一見、“凡庸”にしか見えない男だ。だが決して量産型ではない。

「平凡」を代表するようなヒガシヤマのキャラクターの中に、私は狂気の種のような異物感を勝手に感じ取っていた。怪しげな男・ルイケに執着され、翻弄されていく哀れな男のようでいて、ヒガシヤマ自身も目を付けられるだけの「異物」を備えていたのではないだろうか……。
そうやって深淵を覗いてみたくなるような、簡単にカテゴリ分けできない人物として役を演じることが出来るのが、平野 良だと思った。

平野は、今“若手俳優”と呼ばれている30代中盤までの中でもキャリアを持っている役者で、2.5次元から映像、ミュージカルと活躍も幅広く、演じる役柄もタフなクセモノから繊細な青年まで様々だ。

私の印象は近年まで「安定感があってイイ味を残す若手の中堅」だった。「受け身の芝居が良い、上手な優等生」だとずっと思い込んでいたので、昨年の「年末“祭”シリーズ」で安西慎太郎と共にW主演を務めていた『麒麟にの・る』の気怠げな色気に驚いた。

舞台『文豪とアルケミスト』の太宰 治も、ミュージカル『憂国のモリアーティ』のシャーロック・ホームズも、孤独を押し隠したような寂しい明るさが印象的だったのだが、年々、寂しさの影が魅力的に映るようになっている気がする。

『戦国鍋TV』の「大阪ハイスクール高校与太郎爆走ロード」豊臣秀頼 役で“シャバ僧”呼ばわりされていたところも(ちなみにそう呼んでいたのは徳川家康 役の小林且弥である)、「ヘアーアーティスト毛利元就」の尼子国久 役で謎に訛っていたところも、『戦国★男士』伊達成実 役で男子トイレの奥に連れ込まれていたところも鮮明に覚えているので、もしかしたら自分はそこそこ前から注目していたのではないかと都合よく思えなくもないのだが、そう言い切ることは微妙にできない。
理由は友人がファンだったから。合コンで「私、○○くん狙いだから~」と言われるとA.T.フィールドが発生して踏み込めなくなる理論と同じである。

だがここ最近は取材の機会も増え、あらためて彼の出演作をチェックするようになり、その歌い上げるような台詞回しの心地良さや、確信犯的なケレン味の出し方にすっかり酔ってしまった。

アクの強さは作品から浮かないギリギリを狙っていて、きっとこの人は嗅覚が鋭いのだろうなと思う。元々何が良いのか見抜く力を持っていたのかもしれないが、本能や天性論ではなく、計算と学びと努力を重ね、様々な方向から見た上でベストを選び取っているのではないだろうか。

これも役者なら当たり前のことだと失笑されてしまいそうだが、自分が選択した、その理想の通りに演じる力を持っている、あるいは常に培っているのだろう。そうしたクレバーさを秘めながら、役柄では「凡人」も「変人」も「天然」も「天才」もやれるのだから、強い。

『ウエアハウス-double-』の話に戻るが、“ごく平凡な”ヒガシヤマは、観客に感情移入させるポジションのようであり、「彼はもしかしたら、自分ではないか」と鋭く刺さるようなシンパシーを与えておきながら、唯一無二の魂を感じさせていた。

あの芝居のラストを思い起こす度、「きっと誰もが、ああしただろう。人とは、人間とはそういうものなのかもしれない」と思う一方で、「(平野 良が演じる)あの人だから、そうしたのだ」という結論も捨てられない。

不思議な“共感性”と揺るぎない“個性”を持っている役者だと思う。


さて。
これでも語り足りないが、そろそろ話を戻そう。

そのふたりがW主演を務めるのが『忠臣蔵討入・る祭』。
平野 良は寺坂吉右衛門、小林且弥は大石内蔵助を演じる。

『ウエアハウス-double-』では、捕食者と被食者のような関係性を構築したふたりが、今度は赤穂藩家老と、赤穂浪士ただひとりの生き残りを演じるという。未知数過ぎて、期待しかない。

「年末“祭”シリーズ」は、「幕の内弁当」だと誰かが言っていた。
いろんな味が、これでもかと詰め込まれている。

それに例えると、主役の平野と小林は“ごはん”だろうか。だが変幻自在の彼らだ。寺坂と大石は混ぜご飯かもしれない。チキンライスかもしれない。なんならパンかもしれない。麺類かもしれない。いっそ白米かもしれない。

ともあれ、彼らが主食であることは間違いない。そしてどんな味付けで、どんな詰め合わせで演目が供されるにせよ、ふたりが中心であるならば、絶対に美味しいに違いない。

どんな味わいが待っているのか。イチ祭ファンとして、とても楽しみにしている。

文 / 片桐ユウ

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