佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 169

Column

『みな殺しの霊歌』を映像化する加藤泰監督の演出と、それに応えてみせた俳優・佐藤允の覚悟

『みな殺しの霊歌』を映像化する加藤泰監督の演出と、それに応えてみせた俳優・佐藤允の覚悟

佐藤允が主演した松竹映画『みな殺しの霊歌』に出会ったのは、宮城県仙台市に住んでいた高校2年の春だった。

その前年の秋、結核性の肺炎をこじらせて2か月も入院したので、しばらく学校を休まざるを得なくなった。

そのために正月明けから復帰しても勉強が追いつかなくなり、ぼくはクラスの成績上位組から脱落してしまった。

まだ体力には自信がなかったので、それを口実にして週2~3回は早退するようになった。

やがて学校を意図的にさぼり、映画館に通うことが日常化していく。

将来は映画監督になりたいと夢を描き始めたので、まず東京に出て演劇科のある大学に入ろうと考えて、私立大学の受験科目だけは図書館に行って勉強した。

そんな時期に父の知り合いから松竹映画を上映する封切館のチケットをもらって、劇場に出かけてみると、東宝のアクションスターの佐藤允が主演だった。

そして松竹の可憐な花にたとえられていた倍賞千恵子が、陰のあるヒロインの役で共演していた。

さらに驚いたのは東映で活躍していた加藤泰が監督で、しかも現代劇だったことだった。

ぼくは幼い頃からよく父に連れられて、近所の「公園劇場」という映画館に行っていた。そこは東映の時代劇やチャンバラ映画を中心に、二本立てのプログラムを上映していた。

タイトルを覚えているのは市川右太衛門の『旗本退屈』、大友柳太郎の『丹下左膳』、中村錦之助の『一心太助』など、スターの名前とセットのシリーズものだった。

美空ひばりと高倉健の『べらんめえ芸者』シリーズは他愛のない話だが、軽い喜劇的なタッチが気に入っていた。

単発の作品のなかで印象に残っていたのは、講談や芝居で有名な長谷川伸原作の『瞼の母』を、若き日の中村錦之助が演じた作品である。

主演した女優の小暮実千代は父のお気に入りだったらしく、かつては松竹のスターだったと教えられ」た。

この映画の監督が加藤泰だと知ったのは、明治大学に入った1970年のことになる。

すでに『怪談お岩の亡霊』や『瞼の母』、『真田風雲録』『沓掛時次郎 遊侠一匹』によって、大衆的な娯楽映画ながらもきわめて個性的な作家だと、大学生たちの間では高く評価する声が上がっていた。

そんな加藤泰が松竹に出向いて、現代劇の『男の顔は履歴書』を手がけたの1966年である。

これは暴力団安藤組の組長だった安藤昇が俳優に転じたデビュー作で、素人から一足飛びに主演した映画がヒットして話題になった。

しかし1968年に上映された『みな殺しの霊歌』は、重苦しくて陰鬱な犯罪映画だった。

メジャーの映画会社の作品にもかかわらず、アンダーグラウンド・ムービーにも通じるような空気が、最初から最後まで画面を支配していた。 

ぼくは実験的とも思える作品を観終わって、連続殺人を遂行する主人公の気持ちと自分が、どこかで重なったように感じて怖くなった。

物語の筋にはよくわからないところもあったが、監督が訴えようとしている意思は明快だった。

それはどうにも抑えきれない憤りであり、言葉にできない怒りのマグマであったのだろう。

スクリーンに映し出される佐藤允の表情からは、そうした不穏な気配がはっきり、否、ひりひりと、痛いくらいに感じられたのである。

それと対照的なのが、ヒロインの美しさだった。

当時のぼくは17歳で高校2年生だったが、病み上がりにもかかわらず、背伸びして大学生のデモにも参加したりしていた。

したがって世の中に対する反発や恐怖が、どこか主人公と共通していたのかもしれない。

だがそうした思いも時間が経つにつれて、心の隅に置かれたまま、いつの間にか忘れてしまった。

それでも加藤泰という監督の印象は強烈だったから、「映画評論」や「映画芸術」という専門誌で調べてみた。

そこで初めて『怪談お岩の亡霊』や『瞼の母』、『丹下左膳 乾雲坤竜の巻』、『車夫遊侠伝 喧嘩辰』など、ぼくが子どもの頃に観ていた東映作品を、いくつも手がけていたことがわかってきた。

『怪談お岩の亡霊』はほんとうに怖かったし、『瞼の母』は子どもながらに泣けてしょうがなかった。

『丹下左膳 乾乾坤竜の巻』は主演した大友柳太郎の笑顔が、とてもさわやかで好印象だった。

しかしどうして松竹で『みな殺しの霊歌』をつくったのか、そこはよくわからないまま疑問が残った。

その二年後、大学に入学して映画研究部に入ってみると、加藤泰と鈴木清順がもっとも注目される監督だということを先輩たちから教えられた。

松竹のプロデューサーから、岩下志麻が主演してヒットした復讐劇の『五瓣の椿』を現代に置き換えられないかと提案されたとき、加藤泰は山本周五郎の原作にある主役を男にする案を練ってみた。

そこで登場人物を入れ替えるだけでなく、30年前に感銘を受けた古い活動写真を思い出したという。

それが『続大岡政談 魔像編』(1930年)で、要約するとこんな物語であった。

大河内伝次郎が演じる主人公の神尾喬之助は、千代田城で大勢の上役たちから仕事のやり方を叱責されて、なかには個人的な恨みや罵詈雑言を浴びせる者もいて、畳に突っ伏したまま顔も上げられない状態が延々と続いた。
だが徹底的にいじめられて我慢し続けているうちに、怒りが噴出して一人の首を切り落としてしまう。
その場からいったん遁走した喬之助は、市中に身を潜めて、残った17人を「お命頂戴」とばかりに一人ひとり殺していく。

それが活動写真に取り憑かれた最初の体験で、加藤泰は手に汗握って結末を見届けたという。

この物語については映画ファンを前にして、このように語っていた。

千代田城中から逃げられるわけありませんわね、本当ならね。ところが逃げたんだなあ。逃げてほしいという観客の心のリズム、それまでガーッと追いつめてきた映画的な緊張感、不可能を可能に見せてしまう監督の芸の力――それで逃げた。あれだったら逃げる、逃げてよかった、とお客さんに思わせ拍手させてしまう力を、その映画は持っていた。
(山根貞男・安井嘉雄『加藤泰、映画を語る』ちくま文庫)

しかもその映画は、大人になってから恩師として師事する伊藤大輔監督が、31歳の時につくった作品だったのである。

加藤泰は『みな殺しの霊歌』をつくるにあたって、犯人から何らかの怒りを買った5人の中年女性が、次々と殺されていくことの必然性を考えて、自分の映画体験にある『続大岡政談 魔像編』に立ち返った。

そこから不可能を可能に見せてしまう監督の芸の力と、強い怒りを内に秘めた主役がそろえば映画は成り立つと判断した。

そこで主役に選ばれたのが、1950年代後半から60年代にかけて、東宝でつくられた戦争アクションの『独立愚連隊』シリーズや、ギャング映画で強烈な存在感を示してきた佐藤允である。

今になってみればこの二人の出会いも、偶然の必然だと思えてくる。

1970年か71年に池袋の文芸坐で行われた加藤泰の特集で、ぼくは二度目の『みな殺しの霊歌』を観たときに、仙台の劇場で感じた恐怖と不安をふたたび体験した。

だがそこでもまだ、恐怖がどこから生じてくるのか、映画の何に突き動かされているのか、相変わらずよくわからないままに終わった。

急にそのことを思い出したのは、主人公の連続殺人犯を演じた佐藤允の単行本を読んでいたときだった。

加藤泰について『その男、佐藤允』のなかで語った言葉には、表現が普通でないところがあったのである。

加藤監督のネチネチしたというか、ドロドロした演出力が僕を必要としたということかなあ。
(佐藤闘介著『その男、佐藤允』河出書房新社 2020年)

映画に出演したことで心が通じるようになったのか、監督が「僕を必要とした」という言い方から、ひそかな自信らしきニュアンスが伝わってきた。

ぼくはロケの現場で加藤泰から指示された「無茶な話」を、淡々と語る佐藤允の言葉を何度も読んでいるうちに、その真意がどこにあったのかを知りたくなった。

そうすると「ネチネチしたというか、ドロドロした演出力」について、加藤泰が自ら語っていた映画の本のなかに、どうして松竹で撮影したのかについて書いてあった。

この異様ともいえる現代劇では、全体の構成を若手の有望株だった山田洋次監督が手伝っていた。そして助監督の三村晴彦が一緒にオリジナル脚本を書いて、撮影にもチーフとして参加した。

本来ならば撮影所が別なので、お互いに出会うことがないはずの映画人である。

だが、注目していた監督に納得できる映画をつくってもらうために、自らの意志で協力を申し出てきたことがわかった。

加藤泰が結核にかかったことで、手術しなければならなくなったときのエピソードのなかに、長女の文さんがこんな文章を残していたのだ。

監督としてスタートを切り、私が生まれて、「さあ」という時、今度は父が結核になった。
この頃すでに、結核は不治の病ではなくなっていたが、年単位の長期療養をするか、又は大手術が必要だった。
やっと監督になれたチャンスをどうしても逃したくなかった父は、手術を選んだ。
(山根貞男・安井嘉雄『加藤泰、映画を語る』ちくま文庫)

すると手術を控えた加藤泰のもとに、信じられないようなプレゼントがあった。

まったく面識がないにもかかわらず、若き日の山田洋次監督からこんな手紙が届いた。

「あなたの映画を観て面白いと思い、師の野村芳太郎監督とともに注目しています。」
その文面から受けた励ましは、言葉に尽くせないほど大きく、なんとしても病気に打ち勝って、現場に戻るのだという力になった。
それだけでなく、その後のお二人との出会いは、後年、父が松竹で仕事できるよう道を開いていただくきっかけともなった。
(同上)

なお佐藤允はこの映画の撮影中は、いつも新聞の朝刊を読んでいたという。

それは人の世に生じるさまざまな軋轢や事件、そこにふくまれる社会の理不尽さや不正義に対して、いつも自分の中で怒りを持ち続けるためであった。

そのことを監督から、事前に要請されていたのだ。

そして撮影の現場ではもう一つ、監督から赤信号で交差点を渡るようにという、「無茶な話」を命じられたがそれも実行した。

そこまでに至った俳優としての覚悟に納得させられつつ、ぼくは映画づくりにおける厳しさに怖れを感じてしまった。

人の心に生じる怒りを映像に記録しようとした加藤泰の執念を、17歳だったぼくは理解できなかった。

だから理由もなく恐怖と不安を覚えたということが、今になってようやくわかったのである。

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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