佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 168

Column

個性的な映画俳優が生きた人生に迫る人物伝『その男、佐藤允』を読んで考えた自分の来し方

個性的な映画俳優が生きた人生に迫る人物伝『その男、佐藤允』を読んで考えた自分の来し方

日本の映画界に大きな足跡を残したアクション俳優で、2012年に亡くなった佐藤允の人生に迫った『その男、佐藤允』を読み始めたら、ことのほか面白いだけでなく、自分自身の来し方について考えさせられることになった。

俳優としての父親の仕事を映像作品だけではなく、活字で記録に残すために未発表インタビューを冒頭に配し、この画期的な人物伝をまとめたのは長男の佐藤闘介氏である。

そして東宝撮影所で同時代を過ごした俳優たちにあらためて話を聞くことで、家に仕事を持ち込まなかった父親の姿を、立体的に描き出していくことに成功している。

また2枚目スターだった同世代の夏木陽介氏をはじめとする俳優のみなさんによる発言は、いずれも具体的かつユーモラスで、世田谷にあった砧撮影所(現東宝スタジオ)の雰囲気が、いかにも和気あいあいとしていたことを伝えてきた。とくに驚かされたのは、東宝映画の要である巨匠の黒澤明や谷口千吉、岡本喜八といった監督の本質を、俳優たちが実によくつかんでいることだった。

これらの監督の業績や作風については、すでにたくさんの研究が為されてきたが、この本では人間臭い面がストレートに語られて、ぼくは何度も目から鱗が落ちる思いになった。

戦後に黄金時代を迎えた日本映画のなかで、東宝は欧米の先進国に高く評価された黒澤明監督による数々の作品や、都会的なサラリーマン喜劇と文芸映画、戦争をテーマにした「日本の一番長い日」といった大作、そしてゴジラという特撮の世界的なキャラクターを生み出してきた。

佐藤允がスタッフで俳優でもいいから、なんとかして映画界に入りたいと思ったきっかけも、黒澤監督の『酔いどれ天使』に出会ったことだったという。

それこそ小僧さんでもなんでもいいから、こんな職業に就いてみたいと思いましたね。 それが高校の頃です。
(佐藤闘介著『その男、佐藤允』河出書房新社 2020年)

そして東宝入社後の第1作となった1956年の谷口千吉監督による『不良少年』から10年間で、およそ80本ほどの東宝作品に出演して活躍した。

岡本喜八監督の『独立愚連隊』に抜擢されて主演したのは1959年だったが、そこから日本人離れした不敵な表情の個性的なスターが誕生し、センセーションを巻き起こしたのである。

本書では当時の砧撮影所における映画作りの様子や、たびたびロケ地となった富士山麓での仕事ぶりが、本人及び俳優仲間たちによって生き生きと語られている。

しかも映画監督でもある闘介氏の中に残っていた父の記憶が、本文中の要所要所にさりげなく登場してくる。

そのことによって、どちらかというと寡黙な俳優だった佐藤允の誠実さ、人間のぬくもりが自然に伝わってくる構成にも好感を持った。

ひとつ、例を挙げてみよう。

晩年 うちの父が「僕はね、緊張感のある現場が好きなんだ」って。そういう雰囲気が好きなんだって、言ってたんですよ。俳優さんには、思いっきり言った方がいいタイプと、言わない方がいいタイプがいて、うちの父は言われた方が良かったみたいで。
(同上)

初の準主演作品となった鈴木英夫監督の『脱獄囚』は1957年11月に公開されたが、完成まではかなり難航したという。復讐の鬼を演じた本人も、「コテンパンに絞られた」とインタビューで語っている。そのくらい撮影の現場は緊張感に包まれていたし、そこでは容赦のない言葉を監督から浴びせられたという。

しかし、どんな俳優にも等しく指導してきた監督のもとで、厳しい試練を耐えて乗り越えたことが、その後の成長につながったのである。

1959年の『暗黒街の顔役』については、簡潔ながらも小気味のいいこんな解説がついていた。

佐藤允がオールスターキャストの中で、ひと際輝くような個性を発揮。岡本喜八監督によって、その魅力を最大限に引き出された最初の役柄、「殺し屋五郎。後半に突如存在感を増し始め、場をさらい、「五郎ってんで」「オレ、プロ野球で言えばフェアプレーってやつで生きてるんで」と、ひねたセリフでうそぶく。
(同上)

このように闘介氏による解説には客観的な批評性と、父への思慕が備わっているので、読んでいるうちに気持ちがやさしくなれる。

とにかく、その作品を観たいと思わせてくれるところがいい。まさに最高の映画案内の役割を果たしている。

ところで、ぼくが小中学生だった頃に東宝の映画を観たのは、数えるほどの本数でしかなかった。だが街中に張られたポスターを見ただけで、佐藤允のことを親しみが持てるスターだと思ったのは、おそらく多くの二枚目俳優との違いによるものだろう。

自然体でつくられたスターの気配を感じさせず、とりすましたところがまったくなかった。

あらゆる意味で彼の育て親となった岡本喜八監督による代表作は、主役に抜擢された1959年の『独立愚連隊』である。

この作品についても、闘介氏の簡潔な解説を紹介しておきたい。

大東亜戦争末期。北支戦線山岳地帯に馬を走らせる、不敵な面構えの従軍記者がいた。彼の標的は日本軍上層部! ここに、日本映画史上稀に見るアドベンチャーヒーローが誕生した! 白い歯を見せてニカッと笑い、拳銃、機関銃をぶっ放つ佐藤允の明るい個性が見事に開花。

この文章は解説というよりも、的を射た惹句と呼ぶにふさわしい。思わず声をかけて拍手したくなる、そんな痛快さが感じられる。

なお、この『独立愚連隊』が10月6日に公開される前に、東宝はスタッフとキャストの大半が20代で製作された、ハードボイルド映画『野獣死すべし』を6月9日に公開していた。原作は早稲田大学出身で24歳の大藪晴彦、脚本も大映や日活で若々しい感性の作品を執筆していた27歳の白坂依志夫、主演した仲代達也は26歳、監督の須川栄三も29歳だった。

20代ということでいえば、音楽の世界でブームになっていたロカビリーを題材にした映画『青春を賭けろ』が、7月28日に公開された後になって挿入歌の「黒い花びら」が大ヒットした。しかもその年に制定された第1回日本レコード大賞で、グランプリに選ばれたのである。作曲と編曲の中村八大は28歳、作詞の永六輔は26歳、歌った水原弘は24歳であった。

このあたりから時代の動きは風雲急を告げて、1960年に入ると安保反対運動のデモが全国各地に広がるなど、政治も文化も刻々と変化していく。

それとともに栄華を誇ってきた各社の観客動員数が下降線をたどり始めて、そこから数年のうちに斜陽産業と形容されるようになり、大映と日活が経営危機に見舞われる。

佐藤允が東宝のみならず、松竹や大映、日活、東映に出演するのは1968年からである。ぼくはここでようやく彼が出演する作品の数々に、リアルタイムで向き合えることになった。

(後編に続く)

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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