佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 166

Column

大阪の街並みを思い出させる坂本スミ子の「たそがれの御堂筋」を聴いて、作詞した古川益雄に思いをはせた夜

大阪の街並みを思い出させる坂本スミ子の「たそがれの御堂筋」を聴いて、作詞した古川益雄に思いをはせた夜

ぼくが大阪の街を意識するようになったのは、おそらく小学6年生の時だと思うのだが、もう詳しくは覚えていない。

最初に興味を持ったきっかけは雑誌に載った大阪の街を写真で見て、たくさんの人がそぞろ歩いている道頓堀の賑わいにあこがれたことだった。

いくつもの劇場や映画館があって、おびただしい数の飲食店が軒を連ねていた。

そこで大阪の地図を調べて場所を確認し、大人になったら道頓堀に行こうと決めたのだ。

ちょうどその頃だったと思うが、1961年4月8日の夜10時からNHK総合で、新番組『夢であいましょう』が始まった。

その音楽バラエティで毎週、エンディングのシーンに登場してテーマ・ソングの「夢であいましょう」を唄っていたのが坂本スミ子だった。

ぼくは子どもながらに彼女の歌声が大好きになった。

そして夜の遅い時間だったにもかかわらず、『夢であいましょう』を父と二人で観るようになった。

おそらくは母も加わって家族で一緒に観た気もするのだが、今では父との会話しか思い出すことができない。

物知りだった父は何かの拍子に坂本スミ子のことを、大阪のラテン歌手だと教えてくれた。

「ラテン歌手って?」と訊き直すと、メキシコ風のエキゾチックな衣装を着たアイ・ジョージのことを例にあげてくれたので、なんとなくのイメージはつかめた。

父はそこからラテンが示す中米地域やカリブ海のことを話しながら、世界中に様々な音楽があることを教えてくれた。

ぼくが大人になってから音楽の仕事に携わり、ジャマイカ、キューバ、メキシコ、ブラジルなど、ラテン音楽が生まれた国々を訪れることになったのは、もしかするとその時の会話に端を発していたのかもしれない。

アイ・ジョージは日本人で初めて1963年10月に、ニューヨーク市のカーネギー・ホールで公演を行っている。

しかし、その年は坂本 九が唄った「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI (スキヤキ)」のタイトルで、全米ヒットチャートで6月15日から3週連続で1位を成し遂げた。

これを作詞した永 六輔はNHKの『夢であいましょう』で、快挙を達成する直前の6月8日に特集として取り上げた。

そうしたこともあって「SUKIYAKI」が世界中で大ヒットしたことは、ぼくの音楽的な背骨を作ってくれる快事となった。

それに比べるとアイ・ジョージのカーネギー・ホール公演は、それほど大きなニュースとして取り上げられずに終わった。

『夢であいましょう』のディレクターだった末森憲彦は、「耳で歌を聴くだけではなく、目でも音楽を楽しむ」をテーマにして番組制作に取り組んだという。

そんな番組が求められたのは、テレビが一般家庭にまで普及した1950年代の後半から、60年代の前半ことだった。

戦争のない平和な時代がやって来たことで、歌や音楽が若者たちに身近なものとなったのだ。

末盛は音楽を効果的使ったバラエティ番組を企画し、1960年の秋に『午後のおしゃべり』を起ち上げた。

そこで構成に起用したのが新進気鋭の放送作家で、1959年に第1回レコード大賞に選ばれた水原弘の「黒い花びら」を作詞して有名になった永 六輔である。

事前の打ち合わせに参加してもらって、二人は一緒にテーマを絞り込んで指針を決めた。

・「テレビはまず新鮮でなくてはならない」
・「それまでにないエンターテインメント番組を作ろう」

それと同時に音楽監督には人気ジャズピアニストで、やはり「黒い花びら」の作・編曲で脚光を浴びた中村八大を迎えたのである。

それからまもなくして『午後のおしゃべり』は、番組の改変のために夜の深い時間へ移ることになった。

そこで4月から『夢であいましょう』へと、完全にリニューアルしたのである。

それを機にたくさんの出演者が新しくレギュラーに抜擢されて、番組から華やかさが伝わるようになっていった。

当時はまだ無名の女優やコメディアン、新人といってもいい歌手たちだったが、1年もしないうちにみんな一流のスターや喜劇人、俳優、エンターテイナーになった。

永 六輔のこんな発言が残されている。

「若い人がたくさん集まってきました。
若かった渥美清さん、若かった黒柳徹子さん、坂本スミ子さん、デューク・エイセス。
そしてまだ幼かったといったほうが似合う坂本九」

そんな若手の才能を伸ばすために脇役を務めたのが、三木のり平、益田喜頓、谷 幹一、E・H・エリック、岡田真澄といった芸達者で多彩な俳優やコメディアンたちである。

また、中村八大と永 六輔による「今月の歌」が毎月1曲、番組のために書き下ろされた。

そのなかから「上を向いて歩こう」(坂本 九)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)、「いつもの小道で」(田辺靖雄)、「故郷のように」(西田佐知子)、「おさななじみ」(デューク・エイセス)、「こんにちは赤ちゃん」(梓 みちよ)、「帰ろかな」(北島三郎)などのヒット曲が次々に生まれてきた。

当時はこの番組から日本の音楽シーンに、新しい風が吹き始めていったのである。

そして坂本スミ子が唄うテーマ・ソングの「夢であいましょう」が、シンプルな歌詞とメロディーで聴き手の心を温めてくれた。

経済的にはまだ貧しかった時代だったが、誰もが夢を持っていたという意味では、意外に心は豊かだったのかもしれない。

1966年に『夢であいましょう』が終了すると、坂本スミ子のシングル「たそがれの御堂筋」が発売になった。

そのタイトルと歌詞から想像して、道頓堀と同じようにあこがれたのが御堂筋である。

大阪の地名として “筋”という言葉が使われていることを知ったのは、この歌を通してのことだった。

大阪市内は碁盤の目状になっていて、南北に走る道路がメインストリートで“筋”と呼ばれで、るこ東西に走る道路は“通り”だということがわかった。

御堂筋の たそがれは
若い二人の 夢の道
お茶を飲もうか 心斎橋で
踊り明かそう 宗右衛門町
送りましょうか 送られましょか
せめて難波の 駅までも
今日の僕等の 思い出を
テールランプが 見つめてる

大阪の街並みを具体的に想像できる秀逸な歌詞を書いたのは、大阪のターゲット・プロダクションの社長だった古川益雄であった。

アイ・ジョージや坂本スミ子の育ての親としても有名で、1960年代の一時期は永 六輔のマネージャーを務めたこともある。

それはパートナーだった中村八大が家族を連れて1年間 、ニューヨークに暮らすことになった1964年から65年にかけてのことだった。

永 六輔が大阪で暮らそうと決心したのは上方の歴史や文化を知らないまま、古典芸能を語るわけにはいかないと思ったからだという。

とりあえず大阪のアパートでひとり暮らしを始めると、大阪朝日新聞に「わらえてい」と名付けた芸能100年史を連載し始めた。

そのあたりの面倒をみて協力したのが古川だったらしく、関西を中心にして隆盛をきわめていた大阪労音のコンサートを皮切りに、積極的に司会者として起用していった。

永 六輔が「僕から作詞の能力を引き出してくれたのが中村八大なら、タレント性を育ててくれたのが古川益雄だ」と述べたのは、そうしたあたりのつながりや経緯を指してのことであった。

なお競馬を教えたことでつながった寺山修司に、「たそがれの御堂筋」に続いて、坂本スミ子のためにユニークな歌謡曲を作詞させたのも古川の仕事だった。

それが反戦のメッセージが込められた「戦争は知らない」で、1967年に発売されたレコードは惜しくもヒットに結びつかなかった。

ところが京都のフォーク・グループだったザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦が、この歌を発見してカヴァーしたことから、21世紀にまで唄い継がれることになったのである。

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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