佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 165

Column

涙色に光る歌~「街の灯り」と「マイ・ラスト・ソング」から感じた久世光彦の呟き

涙色に光る歌~「街の灯り」と「マイ・ラスト・ソング」から感じた久世光彦の呟き

ザ・スパイダースのヴォーカリストだった堺 正章は、バンドが解散した1970年からソロ歌手と俳優になっている。

そして下町あたりの銭湯を舞台にしたテレビの人気ドラマ『時間ですよ』に出演し、軽やかな笑いと演技で才能を一気に開花させた。

ところでドラマを演出した久世光彦によれば、TBS水曜劇場の枠で始まった『時間ですよ』の脚本には、笑いを誘発する芝居に関しては何も書かれていなかったという。

だから1話について二日間とってあったリハーサルの際に、「トリオ・ザ・銭湯」の健ちゃんこと堺 正章、市子役の川口 晶、そして浜さんに扮した樹木希林(当時は悠木千帆)が相談しながら、久世をはじめとする演出のスタッフと一緒に、コントやギャグを仕上げたのである。

稽古場で練習を重ねて動きに切れを出しておいて、本番ではその場の思いつきでやったように苦労の跡を見せず、軽々と演じるのが「トリオ・ザ・銭湯」の持ち味になっていく。

堺 正章の父は喜劇俳優として映画界で活躍した堺 駿二、川口 晶の母は名優と謳われた三益愛子だった。

そんな2世タレントだった二人に対して、樹木希林の両親は一般人だったことから、出自をめぐる話がこんな笑いにつながっていった。

★トリオが仕事をサボって 釜場に集まり雑談中。健ちゃんと市子が芸能界で二世タレントが活躍していると盛り上がると、浜さんが、親の七光りを利用しただけだと水を差す。すると健ちゃんが色をなし、テレビを見ても実力で演技している、とやり返す。続けて市子が「でもニ代目って得よね」とつぶやくと、浜さんが語気を強めて「親の七光りがなくても立派に演技している人はいるわよ!」。その直後に妙にむきになっている浜さんの顔を、不思議そうに見る堺の表情のおかしいこと!(第28回)
(加藤義彦著『「時間ですよ」を作った男 久世光彦のドラマ世界』双葉社2007)

1970年の2月から始まった水曜劇場の第一シリーズに堺 正章を抜擢した演出家の久世は、すでに信頼できる役者だった樹木希林といっしょになってギャグをつくり、身体を使って演じるセンスと度胸を高く評価した。

そしてストーリーと関係ないギャグが好評だったことから、『時間ですよ』はいつしか〈寄り道〉ドラマとも呼ばれるようになった。

その面白さがしっかり視聴者に届いていたことについて、久世光彦にインタビューした加藤義彦は著書の中で、子どもの頃にドラマの中で体験した〈寄り道〉の面白さを、このような気持だったと綴っていた。

台本にはないこうした〈寄り道〉の数々は、あっという間に子どもたちの心をとらえ、ストーリーを味わうよりもこちらを目当てにして『時間ですよ』にテレビのチャンネルを回すという珍現象を呼んだ 。当時の気分でいえば、オマケの仮面ライダーカードが欲しくて、さほど食べたくもない袋菓子のライダースナックを買い漁る気持ちに通じるものがあった。
(略)
ある時とき正章が深夜のテレビ番組に出て 『時間ですよ』の思い出を語っていた。なんでも彼はギャグのアイデアがひらめくと、いつも持ち歩いていたノートに書きつけ、リハーサルの席でそれを久世たちスタッフの前で演じたという。そこで採用されればいいが、その多くが却下。本番は翌日なので、帰宅してからも必死にアイデアをひねり出したとか。
(加藤義彦著『「時間ですよ」を作った男 久世光彦のドラマ世界』双葉社2007)

第一回の放送期間は1971年2月14日から9月5日まで、15回の予定だったのが好評につき、全部で30回にもなった。

第二回シリーズにはカラー放送に移行して、1971年7月21日から翌年の3月15日まで、全35回が放送されている。

そこから生まれたのが堺 正章の唄った「涙から明日へ」で、これは久世が小谷 夏のペンネームで、初めて作詞を手がけてヒット曲になった。

またとなりのマリちゃん役で出演した天地真理が唄った「水色の恋」が爆発的にヒットしたことで、TBSの水曜劇場は新人アイドル歌手の登竜門にもなっていく。

第三回のシリーズとなる65回から95回は、ギャグの要素が前回に比べ格段に増えていた。

『時間ですよ』はこの番組にリアルタイムで立ち会えたぼくは、いいめぐりあわせだったと思ったことを覚えている。

そして浅田美代子の「赤い風船」と、堺 正章の「街の灯り」が大ヒットしたのだ。

街の灯りちらちら
あれは何をささやく
愛が一つめばえそうな
胸がはずむ時よ

浜 圭介が作曲した「街の灯り」は1973年6月25日にシングル盤として発売されて、後世まで歌い継がれるスタンダード・ソングになっているうう。しかも1973年に行われた第15回日本レコード大賞では、内山田 洋とクールファイブ「そして、神戸」と2曲で、浜 圭介が作曲賞を受賞したのだ。

阿久 悠が作詞した5,000曲にも及ぶ歌謡曲の中で、ぼくは北原ミレイの「ざんげの値打もない」(1970年)と尾崎紀世彦の「また逢う日まで」(1970年)、沢田研二の「時の過ぎゆくままに」(1975年)、西城秀樹の「ブルースカイブルー」(1978年)に並んで、どちらかといえば地味な印象ながらも、「街の灯り」は胸を張れる代表作だと思っている。

堺 正章がこの楽曲で第24回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしたことで、音楽業界における久世の名声が高まったとも言えるだろう。

ここから久世は演出だけではなくプロデューサーとして1974年1月16日から10月9日まで、『寺内貫太郎一家』を人気シリーズに成長させていった。

そして休む間もなく『時間ですよ 昭和元年』(全26回)が、1974年10月16日から1975年4月9日に放送されたのである。

ここでは挿入歌がドラマの出演者とは別で、通りすがりの男女という設定のさくらと一郎による「昭和枯れすゝき」が使用された。

男女のデュエットがハーモニーを奏でるという前代未聞の“ド演歌“を作曲したむつひろしは、ポリドールレコードのディレクターだった松村孝司である。

企画の段階から松村は久世と相談して『時間ですよ 昭和元年』の中で、レトロ感をたっぷり醸し出す挿入歌として「昭和枯れすゝき」を制作して流すことを決めていた。

大正の終わりから昭和にかけて一世を風靡した哀愁のメロディーで、「♪おれは河原の枯れすすき 同じおまえも枯れすすき」と唄った「船頭小唄」にあやかってのことだった。

それがなんと150万枚を超える大ヒットを記録し、年間チャートの1位になって音楽業界のプロたちを驚かせたのである。

しかもそれまでまったく無名だったさくらと一郎は、楽曲がヒットし始めてからもこのドラマに出る以外に、テレビ出演や取材をほとんど受けなかった。

それもまたユニークなタイアップの方法だとして、ミステリアスな話題に拍車をかけることになった。

久世にとっての愛唱歌は心の奥底から、呟くようにこぼれてくるものだったようだ。

私は人前では決して歌わないが、一人でいると、街中の石段を降りながらとか、列車の窓から海の落日を眺めながらとか、ベッドサイドのスタンドを消した後の闇の中でとか、口の中で呟くように歌っていることがよくある。
別に可笑(おか)しなことではないと思うし、むしろ歌はそうして歌うものだと私は思っている。歌は一人遊びの玩具である。
だから私の玩具箱の中には、塗料が剥げかけて壊れかけた玩具もあれば、何度か捨てようとして思い直した玩具もあるし、雨の夕暮れにしか遊ばないものや、近所の子たちがきたときに得意になって見せびらかしたい、蛍みたいに光る歌もある。
ふと考えてみれば、それは、人が誰でも人生の押入れの中に一つずつ匿(かく)している玩具箱なのかもしれない。
その人が死んで家族や友人たちは 首を傾げる。――どうしてこんな玩具を大切そうに蔵(しま)っていたのだろう。一つぐらいは手にとってはみても、彼らはすぐにそれを箱に戻し、やがてその人の顔や声といっしょに、水色のビー玉や黒い機関車のことを忘れてしまう。
(久世光彦著『歌が街を照らした時代』幻戯書房2016)

匿(かく)している玩具箱のなかにはどういうわけか、畏友だった阿久 悠の歌がいくつもあったと久世が述べていた。

そのことについてはこんな文章もしっかり残されている。

ほかの歌たちと違って、この人の歌には硬い手触りがある。だから目をつむってでも、すぐに探し当てることができる。掌の上にしばらく載せていると、ぼんやり涙色に光り始める歌がある。
(久世光彦著『歌が街を照らした時代』幻戯書房2016)

久世は歌謡曲の2番の歌詞にも、かなりのこだわりを持っていた。

というのも1番はシチュエーションの説明が求められるので、作家性を存分に発揮することが多いのは、自由に表現できる2番の方だと体験を通して熟知していたからだ。

そして阿久 悠が書いた「街の灯り」の2番には、まさに“ぼんやり涙色に光り始める”歌詞が出てくるのだ。

好きな唄を耳のそばで
君のために低く歌い
あまい涙さそいながら
そして待った
街の灯りちらちら あれは何をささやく
愛が一つめばえそうな 胸がはずむ時よ

僕にはこの歌の主人公が久世光彦だったのではないか、そう思えてならなかった。

今年で12年目を迎えた音楽舞台の「マイ・ラスト・ソング」は、『時間ですよ』に焦点を合わせた内容で、タイトルも「マイ・ラスト・ソング・カジュアル in シモキタザワ」になった。

出演はこれまでと同じくピアノ弾き語りの浜田真理子と、朗読、とトークの小泉今日子のほかに、サックスのmarinoとフォークシンガーの岩坂 遼という若手が新たに加わった。

そして「昭和枯れすすき」や「街の灯り」が下北沢という街の、本多劇場というカジュアルな雰囲気の空間で披露されたのだった。

そうしたことでから久世光彦と歌をめぐる旅に、新しい展開が見えた気がしているところである。

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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