オトナに響くストーリーマンガ  vol. 9

Review

短編マンガの名手・宮崎夏次系が描く「SF=すごくふしぎ」な世界観。新刊『と、ある日のすごくふしぎ』のキャラクター表現を読み解く

短編マンガの名手・宮崎夏次系が描く「SF=すごくふしぎ」な世界観。新刊『と、ある日のすごくふしぎ』のキャラクター表現を読み解く

今回ご紹介するのは『変身のニュース』『僕は問題ありません』などの短編集で知られる宮崎夏次系(みやざき・なつじけい)の最新単行本『と、ある日のすごくふしぎ』です。雑誌「S-Fマガジン」に数ヶ月おきに掲載された「と、ある日の」で始まるタイトルの短編をまとめた1冊です。

文 / 永田 希


記号としてのマンガ的顔と読み取れなさ

その最初の1篇「と、ある日の忘れもの」は、離島で暮らす老母と青年の別離を描いた作品。「仕事」のために母親を島に残して出かけなければならない青年に対して、島の医師が「薄情」だととがめる場面も描かれます。しかし青年が乗った船が出航した頃、老母は青年の「忘れもの」に気がつきます。

収録作「と、ある日の忘れもの」より。

既に島を離れている青年に、老母はどのようにして「忘れもの」を届けるのでしょうか。その「方法」は作品をご覧いただくとして、注目したいのは青年の母親の「顔」です。その顔の肉は垂れ下がり、肉と肉が作り出す皴は、老母の「顔」をもはや「顔」と識別させるのが困難なほど複雑に覆っているのです。

基本的に、マンガは線だけで風景と人物を描きます。特に作品の中を動き回る人物(キャラクター)、とりわけその「顔」は単純化されて描かれる必要があります。読者はキャラクターの「顔」を覚えて、そのキャラクターの活躍を眺めて楽しむからです。誰がどのキャラクターなのかを識別しやすくするために、読者はキャラクターたちの「顔」をある種の記号として認識し、識別します。そのため、一般的なマンガのキャラクターは可能な限り単純化されます。作品内のキャラクター同士を識別するための最低限の記号的な要素が組み合わされてキャラクターは描かれます。
たとえば『ドラえもん』の野比のび太はメガネ、ジャイアンは丸い鼻とギザギザの前髪と大きな体躯、スネ夫ならツリ目と前方向に突き出た髪型。『鉄腕アトム』のアトムなら上と横にツノのように尖った頭部、大きな目と細い弓形の眉毛、赤いブーツと黒いショートパンツなど。

「と、ある日の忘れもの」でおもに描かれる青年も、このような記号的な要素を持っています。それは野比のび太のようなメガネと、神経質に閉じられた小さな口です。これに対して、老母の「顔」はどうでしょうか。垂れた肉と皴のために表情も読み取れない老母の「顔」は、記号と呼ぶにはあまりに複雑です。
「複雑な線で描かれる表情の読み取りが難しい顔」はそれ自体で、かえって、ひとつの記号になります。この老母の「読み取れない」顔と、青年の単純で神経質な顔の対比は、読者に違和感を与えるでしょう。親子なのに似ていないし、年齢も離れすぎているように思われます。「大丈夫だよぉ、わたしはぁ」「シジュツうけてからすご~く調子いいんだぁ」と語る老母の表情は、やはり読めません。手術を意味すると思われる「シジュツ」も何のことかわかりません。親子なのに似ていない老母と青年、読み取れない老母の表情、思い詰めたような青年の表情、母親をひとり残して島を離れなければならないほど重要なのに詳細が明かされない青年の「仕事」、そして老母が受けたという「シジュツ」、謎は静かに積み重なっていきます。

ただ「離島に暮らす親子のひとときの別離」を描いただけのこの短編。老母の「顔」以外は、描き込みは簡潔すぎるほどに抑えられ、画面は細い線ですっきりと整えられ、作品からは終始、静かな雰囲気が漂います。穏やかで、すっきりとして、静かな画面と、読み進めるほどに積み重なっていく謎と違和感。この対比は、読者の無意識にフラストレーションを溜め込んでいきます。溜め込まれたフラストレーションは、それはクライマックスの「忘れもの」が届けられる美しい場面で一気に爆発します。

「すごくふしぎ」とは何か

本書のタイトルにある「すごくふしぎ」は、『ドラえもん』の作者である藤子・F・不二雄が提唱したとされる造語「すこしふしぎ」をもじったものと思われます。「すこしふしぎ」は、通常はサイエンスフィクションの略語として知られているSFをひねって作られた言葉です。
『ドラえもん』などの「すこしふしぎ」作品は、日常にSF的要素を加えたものなのに対して、「すごくふしぎ」とはどういうことなのでしょうか。そもそも「ふしぎ(不思議)」とは、仏教用語で「人間の思いや議論ではわからないこと」を指します。感情や理性では捉えられない出来事に出会ったときに、人は「ふしぎ」と感じます。「と、ある日の忘れもの」では、「何が起こったのか」は描かれているものの、「どうしてそうなったのか」は謎のまま、美しい出来事だけが提示されるため、読者は文字通り「すごくふしぎ」を味わうのです。

収録作「と、ある日のわたしとタケル」より。

本書に収録された作品にはスペースオペラもなければ、難解な専門用語が出てくるわけでもありません。その意味ではサイエンスフィクションではありません。また、一見したところ舞台は日常の場面が多く、キャラクターたちの会話ももっぱら日常的なもの、いわば平熱の会話です。それでも作中で説明されない不思議な設定がどの短編にも散りばめられていて、読者はその平熱と謎とが共存する「ふしぎ」に出会うのです。

本書を読んで思い出したのは、たむらしげるのアニメーション作品『クジラの跳躍』です(Amazonプライムビデオでレンタル視聴可能)。極限まで簡略化(記号化)したキャラクターと風景による透明な世界観のなかで、現実にはあり得ない「ガラスの海」やスローモーションで跳躍する巨大な鯨が描かれる『クジラの跳躍』。同作では、「ガラスの海」のような現実には有り得ない背景が描かれますが、そこに描き加えられるキャラクターたちは現実の存在に近い人間として設定されています。そのギャップが不思議な感覚を鑑賞者に与えるわけです。

では宮崎夏次系の作品ではどうでしょうか。宮崎の作品のキャラクターは、「と、ある日の忘れもの」の老母のような、現実には「あり得ない」存在である可能性を常に湛えています。宮崎作品の読者は、作中に描かれる日常、平熱の世界が突然狂い出す可能性に絶えず晒されることになります。
宮崎は、この突然に何かが狂い出す瞬間、作品に仕掛けられた「ふしぎ」が突然に露呈する瞬間に、現実に通じる切なさや美しさを差し込んでくる。それまで淡々とした表面に潜んだ「ふしぎ」の気配に、静かに緊張を感じていた読者はその緊張が爆発する瞬間、驚き、かつ予想していた通りの「ふしぎ」の露呈にある面で安心しつつ、油断したところに、切なさや美しさを差し込まれてしまうことになるのです。

美しさと切なさと

宮崎はいっけんしたところ子供の描いたような「下手な絵」を使ったり、乱暴で粗雑な会話で野卑な人間関係を描くことで、読者を油断させます。写実的な「絵」でも、普通の意味で記号化されたマンガ的でもないようなキャラクターを登場させ、説明が省かれて意味不明な世界に読者を誘い込みながら、人間が現実で遭遇しうる美しさや切なさを描いています。それは、ある日、ある場所で目にすることになる忘れられない景色であったり、後悔しても取り繕うことができない過去の別離のときの失態であったり、とても嬉しいはずなのにありふれた日常に埋没してしまいそうなささやかな喜びであったりするでしょう。

収録作「と、ある日の二人っきり」より。

かつて私は別の場所で宮崎作品における歪み(ディフォルメとディストーション)について書いたことがあります。

僕は問題ありません – かたちを歪めるほどに強調するということ。かたちから離れること。宮崎夏次系小論 – シミルボン
https://shimirubon.jp/reviews/1682683

ディフォルメとは変形や誇張、ディストーションは強く歪めることを意味する単語です。宮崎はマンガにつきもののディフォルメをディストーションと呼べるくらいまでに激化させ、その大きな歪みでしか描けない世界観を提示してきました。今回の短編集でもそのディフォルメ/ディストーションは活かされていますが、これまで視覚的に大きく使われてきた歪みは要所要所に限定され、歪みの少ない部分との対比が、より鮮明にされた印象を受けました。宮崎作品は、描かれていない部分に、語るべき要素が圧縮されているため、やや説明的になりましたが、本稿がこれから宮崎作品に触れる人が作品を手に取るきっかけになったらいいなと思います。

書誌情報

タイトル:と、ある日のすごくふしぎ
著者:宮崎夏次系(みやざき・なつじけい)
発行:早川書房
ISBN:978-4-15-209969-3
定価:900円+税
発売日:2020年9月17日
判型:B6判並製
ページ数:256ページ(「S-Fマガジン」掲載作を中心に約30篇を収録)
試し読み:https://www.hayakawabooks.com/n/nfcddad822b84

【担当編集者よりコメント】
すこし常識からはなれて世界から疎外されてしまった人たちに対する温かなまなざし、「全肯定感」ともいうべき優しさが本書には詰まっていて、「周りに上手く合わせなくたっていい、自分と自分のたいせつな人のために生きていい」、と心励まされます。「宮崎夏次系という優しさ」に触れていただけましたら幸いです。

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