佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 161

Column

プロデューサーとして選曲する際のセンスが共通していたエルヴィスと西城秀樹

プロデューサーとして選曲する際のセンスが共通していたエルヴィスと西城秀樹

中学・高校とロック少年だった西城秀樹はスカウトされたことで、歌謡曲の世界に入っていく流れの中に置かれて、当初は少し戸惑ったようである。

しかし当時の日本における音楽状況を考えれば、15歳で地方出身の少年が東京に出てひとり、音楽の道で生きていくには芸能界のルールに乗るしかなかった。

父親の反対を押し切って家出をしてきたために、スカウトされた上條英男氏のアパートに住まわせてもらって、とにかく歌手になるための訓練に励んだ。

住まいは台所のわきの三畳にも満たない3角形の部屋で、長身の体を折り曲げて眠ったが、足はどうしても台所に出てしまったという。

体力づくりの縄跳びが一日300回から始まって、歌、踊り、演劇とレッスンには存分に通わせてもらった。

だが東京での食生活は思った以上にきびしかった。

「オレ、末っ子だから、それまでわがままのしほうだいだったのに、初めて他人の中で暮らすことになったんだからね。
とくに食べ盛りだから、3度のメシだじゃとても足りないんだ。電車賃を節約しちゃ、フランス・パンを買って食べたりしたよ。パンにバターをぬって、その上にコショーをふりかけて食うと、安上がりで意外とうまいということを発見したりしたのも、その頃だったな。
でも、それなりに楽しかったよ。もともとオレは陽の性格やから、あんまり苦にしないんだよね」

上條氏に課せられたレッスンそのものは、かなりハードなスケジュールだったが、音を上げることはなかった。

それはプロの歌手になるという、目的がはっきりしていたからである。

ただし精神的に重いと感じることもあったという。

「普通なら純粋に青春を味わっている年代なのに、こういう世界に入ると、大人のいろんなみにくい面まで見せつけられるのね。それがすごいショックだったな。
それと、大人の理不尽さみたいなものを押しつけられて、レッスンでもないのにムリヤリ歌わせられたり、こっちは一生懸命にやってるのに、なんだかんだと言われたりして、とっても悔しい思いを何度もしたよ。悲しくて泣いたことはいちどもないけど、くやしさに便所に入って大泣きしたことはよくあったね。
デビュー曲の楽譜をもらったのは大晦日の晩でね。除夜の鐘を聞いたあと、外へ出て歌ってみたんだ。その時のことは、いまでも忘れられないな」

1972年3月25日にRCAからデビューするに際しては、大手のプロダクション「芸映」に預けられることになり、同じ居候の身でも部屋は八畳の広さになった。

西城秀樹は子供の頃から映画が好きで、ひとりでも近くの映画館に通っていたので、エルヴィスが主演する作品をよく見ていた。

当然ながら主題歌も挿入歌も聴いて、自然に親しんでいたのである。

そんな時期を過ごした後にライブフィルムの『エルヴィス・オン・ステージ』が、1970年から日本でも公開されて大ヒットを記録した。

だから映画を見るだけでなく全集などをのレコードを聴いて、デビュー前から影響を受けていったと考えられる。

1972年に出したデビュー・シングルは不発だったが第2作の「恋の約束」はまずまずのヒットになったので、作詞がたかたかし、作曲・編曲が鈴木邦彦のコンビが第3弾の「チャンスは一度」を続けて担当した。

西城秀樹は自分の資質に合うスタッフに出会ったことによって、プロデューサー的な視点を持つようになっていく。

僕は作曲家にも恵まれました。鈴木邦彦さんもその後の三木たかしさんもミュージシャン出身ですから結構渋いことやるんですよ。鈴木さんはブルースとか様々なタイプの曲をアルバムに書いてくれた、当時の僕によくこれを歌わせてくれたなって思うくらい・・。
「チャンスは一度」は管楽器がうまく入ったアレンジで面白いと思った。ブラスロックまではいかないけど、ブラスの使い方が明るくてすごく好きだった。

アクションスターっていう言葉が良い意味でとられた。当時踊りながら歌う人って僕と山本リンダさんしかいなかったんだから。

西城秀樹はスタッフともども目指す方向を、その頃から歌えるアクションスターに定めていく。

したがって衣装と振り付けも重要な要素になり、この作品から一之宮はじめが振り付けに参加してきた。

『エルヴィス・オン・ステージ』を観ていたので、自分では「衣裳がハデで本当のこというと恥ずかしくてしかたなかった」と思っても、「ファンの人が喜んでくれれば恥も外聞もなく着る、それがプロだと思う」と割り切るようになった。

そして「チャンスは一度」と4枚目の「青春に賭けよう」で編曲を担当した馬飼野康二が、ライブでのアレンジをふくめて強力なブレーンとして加わった。

1973年5月発売のシングルがヒットチャートで初めて、ベストテンに入ったことで勢いがつくと、9月に発表した「ちぎれた愛」は一気にヒットチャートの1位に輝いた。

これは安井かずみの作詞で、作・編曲が馬飼野康二の初コンビ作品である。

その年の大晦日に開催されたNHKの『紅白歌合戦』にも選ばれたこともあって、西城秀樹は音楽に対峙する姿勢について自信を持ったに違いない。

デビューから5年が経った節目の時に、自信を抑えた口調ながらこんなふう振り返っている。

僕は歌を特にセレクションはしない、ロックだから世界に通じるとか、カンツォーネは世界的だとか、そういう考え方で歌うわけにはいかない、歌謡曲調が一部の人にしか受け入れられないとしたら、それは曲のせいではなくて、歌手のせい、僕は良い歌なら何でも歌います。

エルヴィスもまたアマチュア時代から、自分が良いと思った歌ならばジャンルに関係なく、自分たちのバンドで歌うことによって、独自のサウンドに仕上げて受け入れられたのである。

一般的な歌の良しあしではなく、どのように歌えばいいのかがひらめいた楽曲をレパートリーにして成功を重ねた。

それを検証していくと、最初からプロデューサーとしての判断が備わっていたからだ、ということがわかってくる。

西城秀樹もまた邦楽や洋楽のジャンルにとらわれず、自分が歌いたいと思った歌をライブで積極的にカヴァーしていった。

3~4か月ごとにオリジナルのシングル盤を出すことが、アイドルの使命として決められていたので、ライブの中で良いと思った歌を選ぶ自由を行使していた。

しかしその決まりを外して自分らの意志を通したのが、1978年のシングル「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」だった。

これをハワイで発見したのは翌年に吉野藤丸とSHOGUNを結成する、キーボーディストの大谷和夫だったという。

初代SHOGUNのリーダーとなるパーカッションの中島御が、『ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち』(DU BOOKS 2016)の取材に応えて、通説とは異なるこんなエピソードを語っている。

大谷と藤丸と私でハワイに行った時に流行っていて、「これは秀樹にピッタリだ」と大谷さんが覚えて帰り、夜中にSHOGUNのメンバーでレコーディングしたのを覚えています。

この言葉を補足すると、大谷が覚えて帰ってホテルで譜面をおこし、日本に帰国してから西城秀樹に教えたところ、気に入ってライブで披露したら好評だった。そこで急きょSHOGUNのメンバーと一緒に、夜中にレコーディングをしたのだろう。

当初は「ゲイのコミュニティで流行している歌だから」と、関係者の内部でも否定的な声があったといわれていた。

しかし西城秀樹はマネージャーだったあまがいりゅうじ(天下井隆二)と相談し、少年少女に向けて普遍的な日本語の歌詞を書いてもらった。

生涯における最大のヒットはそれまでバックを務めていた藤丸BANDのつながりで、大谷和夫のアレンジで誕生したのである。

こういうところが8年ぶりにステージに復活したエルヴィスが、マーク・ジェイムズが1968年に発表したシングル曲をすぐにカヴァーし、1969年11月1日付のビルボード Hot 100で1位を獲得したことに重なってくる。

エルヴィスの生涯において「サスピシャス・マインド」は、生涯で最後の全米1位獲得シングルとなった。

オールマイティな歌手として活躍したエルヴィスを意識しながら、西城秀樹は自分に期待を寄せてくれる周囲の人たちや、もっとも大切にしていたファンを満足させることに尽くした。

そうした姿勢から生まれたのがプロデューサーとしてのセンスを活かした、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」の大ヒットであった。

エルヴィス・プレスリーの楽曲はこちら
西城秀樹の楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち

著者:佐藤剛
ボイジャー

ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。

1966年のビートルズ来日公演、それは今になってみれば、奇跡的といえるものだった。いったい誰が、どのようにしてビートルズを日本に呼ぶ計画を立てて、それを極秘裏に進めて成功に導いたのだろうか? これは日本の経済復興の象徴だったリーディング・カンパニーの東芝電気と、その小さな子会社として生まれた東芝レコードにまつわる、歌と音楽とビジネスをめぐる物語である。

vol.160
vol.161
vol.162