STAGE SIDE STORY〜エンタメライター 片桐ユウのきまぐれ手帖〜  vol. 8

Column

vol.8 ドラマ最終回に思う

vol.8 ドラマ最終回に思う

演劇、舞台をメインに執筆しているライターの片桐ユウが、芝居やエンターテインメント全般に思うことを綴っていくコラム。作品は人に様々な感情をもたらすもの。その理由やルーツを訪ねて飛び回ってみたり、気になった場所を覗き込んでみたり、時には深堀りしてみたら、さらに新しい気づきがあるかもしれない。“エンタメ”とのコミュニケーションで生まれるものを、なるべく優しく大切に。

今号は、TVドラマ“最終回”の魅力について。


「正義って、すんげえ弱いのかもしれないなあ」
「弱いからみんなで大切にして応援しないと、消えてなくなっちまうのかもしれない」

──TBSテレビ:金曜ドラマ『MIU404』#10(伊吹藍)

舞台が徐々に幕を開けるようになり、制作側も演者も観客も最大限の配慮を続けることで、千穐楽を迎えられる公演も増えてきた。
TVドラマ界も当初のスケジュールから変更を加えつつ、最終回を迎えた作品が反響を呼んでいる。

ただ、夢中で追いかけていたドラマの最終回を見終えた後は、なんだか取り残されたような気持ちになる時がある。

ドラマの登場人物たちは、これからもあの世界線で相変わらずの日々を送るのだろう。けれどコチラは、それを見守ることが叶わないのだ。
卒業式以来、会えていない友人のことを「あの子、元気かな」と、ふと思い出した時の心地にちょっと似ている。もう人生が交差することはないのだろうかと考えると切ないし、寂しい。

それでも、良いドラマの最終回が与えてくれるのは懐かしむことだけではない気がする。彼らが懸命に足掻いて生きて勝ち取った日々は、放送を追っていたコチラの“これから”に自然とリンクしており、「明日も頑張ろう」という気持ちにさせてくれたりもする。

最近もそんなドラマを2本、見届けた。

「俺たちと、ここで苦しめ」

1つ目は、6月下旬~9月頭にTBSテレビ系「金曜ドラマ」で放送された『MIU404』。

2018年の傑作『アンナチュラル』と同じ、脚本・野木亜紀子、プロデューサー・新井順子、演出・塚原あゆ子がタッグを組み、綾野 剛と星野 源がW主演。さらに主題歌は米津玄師。初回放送から期待を裏切らない面白さでたちまち話題となった。

機動捜査隊(機捜)に所属する隊員たちが追いかける事件は様々だが、刑事ドラマらしく1話で解決するエピソードには痛快感があり、不器用ながらも徐々に結びついていく人間関係には温かい気持ちにさせられた。

それと同時に、“ないもの”として扱われていた社会問題が曝け出されていく物語には、やるせなさも抱く。
社会の裏側に追いやられた人々の悲しみと、意図的に暗躍する者たちのえげつなさを描きつつ、「清廉潔白」であらねばならない側の苦悩と弱さを容赦なく抉っていく展開には、“正しさ”が機能しなくなる社会の怖ろしさが暗示されているように感じて、総毛立つものがあった。

だが、そんな中でも各エピソードに光は差していた。それは犯人と偶然に出会ってしまった中年夫婦であったり、相方のために相棒が見つけ出した真相だったり、生きることを諦めない人々の叫びが放った光だった。

一際、強烈に眩しく感じた光がある。
最終回、クライマックスのアクションシーン後の場面だ。

屋形船の屋上で追い詰められた犯人・久住(菅田将暉)が、自ら鉄橋に頭をぶつけ、その怪我を警察のせいにしようとする。だが久住が目撃証言を得ようと目論み、駆け込んだ船内にいた連れたちは、逃亡劇を繰り広げる久住を心配するどころか薬物をキメてどんちゃん騒ぎに興じていた。

額から流血している久住を笑い飛ばす彼ら。利用するハズだった連中を見回す久住の心に過ぎったものは、己が思っていた以上の失望感だったのではないだろうか。これまで久住は傍観者として周囲を見下ろしていたかもしれないが、この時ばかりは天国を夢見る奴らから取り残されたかのように、ただ呆然と眺めることしかできない。
久住は彼らに対して裏切られたと思うほど大きな期待も信頼も寄せてはいなかっただろうが、視聴者側から見れば思わず“自業自得”と思いたくなる瞬間だった。けれども爽快感と共に「ざまあみろ」と笑うのは憚られるような、そんな久住の複雑な眼差しが焼き付いた。

ちなみに“自業自得”とは自分の行いの報いが自分に返ってくることで、ついでに言うと同じく仏教語を元とする“因果応報”は、行為の善悪に応じてその報いがあることらしい。
ドラマ内の台詞にも出てきた“自己責任”とはまた違うニュアンスではあるが、良い行いも悪い行いも全て自分が回収すべきことであるという考えは、少し通じるものがある。

「ケジメは己でつけるもの」に感じる美学はあるし、全人類がそうできたら世話ないのだけれど、それができるばかりではないのが人間ではないだろうか。
今は「人の手は借りるべきではない」という無言の重圧が社会全体に漂っている気配がある。ジワジワと、しかし確実に世知辛くなってきている世の中の厳しさが滲んでいるような気がする。

そんな中で、脚本の野木亜紀子がこのドラマの根幹としたのは〈ルーブ・ゴールドバーグ・マシン(ピタゴラ装置)の視点〉だった。
ささやかなキッカケやタイミングが影響し合い、運命のように符合していって人の道筋を決めていく。ドラマは全編を通して、「自己責任論」とは対極にあるような「他者との交流」次第でスイッチがいかようにも変動することを示していた。

最終回の終盤まで上手いこと人を転がしているようでいた久住も、やはりキッカケとタイミングを繰り返して転がる人間のひとりだったのだろう。
切り札を失った久住は、後ろから現れた伊吹(綾野 剛)と志摩(星野 源)に捕らえられる。そして、志摩が久住の額の傷におしぼりを当てる。

この一瞬。この動作が、とてつもない光に見えた。

勝手なイメージだが、ひと昔前のドラマではちょっと強めに手当をする刑事や、それを痛がる犯人という像はごく普通に存在していた気がするのだ。取調べ中の容疑者にカツ丼を差し入れたり、職務外の行いをすることで人情味を見せる刑事に対して、犯人も絆(ほだ)され……というスタイルのドラマも、個人的には好きだ。これはこれで、光の当て方のひとつだと思う。

しかし、『MIU404』は徹底していた。志摩は最後まで理性をもって職務を行う。怒りや驕りを余計に乗せることなく、実に淡々と久住の怪我に手を当ててみせた。どんなに憎い犯人が相手であろうが、「法を守らずに力をふるったら、それは権力の暴走である」と繰り返し語っていた志摩の手つきだった。
あのやり取りの中に、勝手ながら“正義”がある世界を見た気がする。

既に多くの人が言っていることだが、それを受ける久住の眼差しも凄かった。その後のやり取りで「物語になることを拒否」した久住に対して、何かを語ること自体が皮肉にも感じるが、あの瞬間は他のエピソードの犯人たちと同様に、どうしようもなく“主役”だったと思う。

そして同じスタッフチームであるドラマ『アンナチュラル』(2018年)の第5話「死の報復」もそうだったが、野木脚本&塚原演出のドラマの主人公たちは、こういう時に実にさり気なく“脇役”へと回る。
それでいて再び本筋に戻す力と視聴者を味方にしておける強さは、これまでの物語の中で必死に駆ける姿をコチラ側に見せ続けていたからだろう。連続ドラマの良さである。

“To take off toward a dream.”

2つ目は、東映制作の特撮TVドラマ『仮面ライダーゼロワン』。

2019年9月1日から2020年8月30日までの日曜朝に放送された、テレビ朝日系列のドラマ作品だ。コロナ禍により撮影が一時中断した影響で5週分の総集編を挟みつつ、最終回まで描き切った。

物語の舞台は人工知能(AI)を搭載した人型ロボット“ヒューマギア”が、様々な仕事で活躍する新時代。主人公は、ヒューマギアを開発した“飛電インテリジェンス”の二代目社長に任命された青年・飛電或人(高橋文哉)。或人はかつてヒューマギアに救われた経験を胸に「ヒューマギアと人類が良きパートナーとして共存する世界」を信じ、ヒューマギアを暴走させるテロリスト組織“滅亡迅雷.net”との戦いに身を投じていく。

主人公・或人はヒューマギアを“パートナー”だと明言しているが、「ヒューマギアは“敵”」「ヒューマギアは“道具”」、さらには「ヒューマギアなど“不要”」と言い切るキャラクターも登場する。メインキャラクターたちが定義する“ヒューマギア”はバラバラだ。

ドラマは「仕事」という切り口から「ヒューマギアとは何か」の答えを探す。そして、その問題の解決には「人間とヒューマギアの違い」を見いだすことが必要であり、そこから「心とは何か」を考えることにつながっていく。

卓越した機能を持つヒューマギアに備わっていないものといえば、それは“心”だから……という結論は一瞬。『ゼロワン』は、「心は人だけが持ち得る素敵なもの。人間っていいな、最高!」という結論には落ち着かない。
何故ならば、ヒューマギアも時に“シンギュラリティ”を起こし、自我が芽生えるからである。

滅亡迅雷.netの実行犯の正体も、飛電からの干渉を受けないヒューマギア。彼らはヒューマギアが君臨する世界のために人類滅亡を目論んでいる。

人類はしばしば自らの手に余るもの、或いは倫理観の追いつかないものを生み出してしまう。
“AI”に対して『ゼロワン』は良い面と悪い面を提示するに留めた印象だが、人々の対応や感情をラーニングして成長するヒューマギアは人間の写し鏡であり、その人間の“心”そのものが善と悪の両面を持ち合わせているのだ、ということは明示されていたように思う。

メインライターの高橋悠也が以前担当していた『仮面ライダーエグゼイド』(2016年)も、“医療”と“ゲーム”というモチーフを使って倫理観を問いかけてくる部分があったが、『仮面ライダーゼロワン』もまた、今現在において結論を出し切れていない黎明期にある題材を扱うことで、我々が抱える問題に迫るものがあったのではないだろうか。
便利な世の中、発達する技術。しかし人間たちはそれらを正しく扱える程に進歩しているのだろうか、と。

1年間というロングスパンで放送される特撮ドラマ。主人公を取り巻く状況が目まぐるしく変わる中でテーマへのアピールが変動することもあり、好みの見どころや受け取るメッセージはきっと視聴者それぞれだろう。私も自分に刺さったポイントをつなぎ合わせた結果として、「これだ!」と思うことを述べているに過ぎない。

その上で個人的には、滅亡迅雷.netの背後に存在した“人工衛星アーク”の正体が「人間の悪意をラーニングさせたAI」と明かされた辺りに石ノ森イズムを感じて、大変心が躍った。
序盤で丁寧に描いていた「心とは何か」と、「善意の力」にフォーカスした感動エピソード回の裏面ともなる「悪意とは何か」にまで切り込んでいったところが熱い。
人間もまだまだ未熟な生き物であり、希望と滅亡の可能性を秘めている。だからこそ、「これからどう在るべきなのか」と投げかけられた気がした。

……並べてみて気付いたが、この2作品は共通して “正義”を問いかけたドラマだった。
「刑事ドラマ」と「ヒーロードラマ」なんだから当たり前だろ、と言われればそうなのだが。

それでも、人と会う機会が減った今の心境が作用してか、「人との交わりによる影響」の場面が胸に響くと同時に、これまでの日常が崩れて先行きも安心しきれない現状に「正義とは何か」ということをあらためて考えさせられた。

ドラマで描かれていたように“正義”は難しい。持つことも持ち続けることも難しいし、“正義”が“正義”であるのかどうか常に見直し、考え続けることも必要だ。時に面倒臭くて投げ出したくもなるが、決して手放さないことが大事なのだろう。

そんな風に、ドラマから受け取ったテーマやメッセージを考える間は、最終回で手を振って別れたはずの登場人物たちがやって来て、暫し一緒に頭を悩ませてくれているような気持ちになる。

夢中になった作品は、そうやって最終回後もずっと傍らにあって生活の励みになるのだ。

文 / 片桐ユウ

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