佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 160

Column

西城秀樹とエルヴィスを結び付けたライブ・アルバム~第2回

西城秀樹とエルヴィスを結び付けたライブ・アルバム~第2回

2020年にデビュー45周年を迎えた歌手の角川博にとって、西城秀樹は広島出身の同郷であった。

しかも同じ時期に同じ事務所の芸映に所属していたという関係だったという。

それだけでも珍しいことなのに、さらにスカウトしてくれた人も同一人物だった。

ロカビリーがブームになった後の時期にエレキギターの第一人者となった寺内タケシが率いていたブルージーンズで、ヴォーカルを担当していた藤本好一がその人である。

ぼくはレコード・デビューするににあたって、当時の音楽雑誌に紹介記事が掲載されていたことを覚えていたので、この原稿を書くため注意深く読み直してみた。

そこで驚かされたのは以下の文章なのだが、読んでいるうちに西城秀樹の激しいアクションと、ダイナミックなうたい方が浮かんできて重なったのである。

昭和18年広島の生まれで 現在 国士舘大学二年生。中学、高校時代は体操部に籍を置いて体を鍛える一方ブラスバンドでトロンボーンを吹いていたという器用さ。現在ブルージーン・バップで宙返りや激しい動きの伴った歌い方を楽々とやってのけるのも徒手体操の基礎が大いに役立っているわけです。
渡辺プロのテストに合格してすぐ彼の軽い身の動きに注目されてブルージーンズに加入。

先輩たちと異なった味 ルックスとソフトな声でファンの受けも良く デビュー曲「恋のヤング・ガイ」「ワシントン広場の夜は更けて」は彼の個性をむき出しにしたご機嫌な出来ばえである。

(黒沢進 監修『ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス ~ロカビリーからグループサウンズまで~』シンコーミュージック 1995年)

しかしながら期待されてデビューしたものの、藤本は歌手として成功することが叶わなかった。

その後は女性歌手の発掘でカリスマ的なマネージャーとなった上条英雄のもとで、裏方にまわって新人を育てる仕事に就いている。

そして地元の広島でバンド活動をていた高校生、木本龍雄を発見して上条に推奨した。

人と人との出会いは本当に不思議なものだと、あらためて思わずにはいられなかった。

藤本の感性を刺激した高校生はそこからデビューが決まり、西城秀樹の芸名でデビューして1年もしないうちに、エルヴィスのようなスーパースターへの道を歩みだしていくのである。

ここで話をエルヴィスに戻すと、1970年1月に日本でオンエアされたスペシャル番組の視聴率は、それほどよくなかったが、昔からのファンの間では大きな反響があった。

そうした復活のムードが高まっていったのは、若者に人気があった深夜放送の番組を通じてのことだった。

TBSの『パックインミュージック』火曜日の深夜は、音楽評論家の八木誠と声優の若山弦蔵が担当していたが、元旦の夜から3月31日までの期間で「50大アーチスト人気投票」の企画を実施した。

その結果、1位はビートルズだったが、2位にエルヴィスが入ったのである。

1956年に日本でレコード・デビューして以来、こうした盛り上がりが起こったのは初めてのことだった。

エルヴィス・プレスリーを一度もブレークさせたことがなかった日本ビクターの洋楽部では、アメリカで復活したロック界のスーパースターをもう一度、きちんとプロモーションしてみようという機運が高まった。

そこで“よみがえるプレスリー”というキャッチフレーズで、エルヴィスのレコードに関してリバイバル・キャンペーンを実施したのだ。

そのタイミングで9月5日に発売されたレコードが、『プレスリー・オン・ステージ1970』だった。

まだ新入社員だった高橋祥子は、いきなりエルヴィスの担当になったが、正月に放映されたNBCテレビスペシャルを見て気持ちが入ったという。

もう過去の人とばかり思っていたのが、あまりにエネルギッシュだったので、それまでの認識をすっかり改めたのである。

高橋はエルヴィスのレコードを持ってラジオ局へ売り込みに行き、記事の掲載を頼むために雑誌の編集部へ通い、こまめにレコード店を回って歩いた。

そして10月にアメリカから新曲が届いたとき、「この胸のときめきを」というタイトルを見て、ヒットすると直感した。

そこに映画配給のMGMから電話が入って、プレスリーの新作映画が届いたのだが劇映画ではないので、社内試写を行うので感想を聞かせてくださいという申し入れがあった。

集まった映画関係者はどうせいつものプレスリー映画だろうと期待していなかったが、スクリーンにMGMのライオンが吠えた後で歓声が上がり、熱狂する観客の姿が映し出されると空気が一変した。

全員がプレスリーのステージに圧倒されて、こんな凄い歌手のライブは初めて見たと驚愕したのである。

映画が終わると業務用の試写ではめったに起こらない拍手に包まれた。

エルヴィス映画の日本公開を中止していたMGMも、内容に自信をもって全力でヒット作にしようと力が入った。

そしてタイトルを考えた末にアルバムをヒントにして、『エルヴィス・オン・ステージ』と名付けた。

1956年の「ハートブレイク・ホテル」から15年にわたって、日本ではプレスリーと呼んでいたのだが、この映画をきっかけにしてエルヴィスに変わっていくことになった。

プレスリーの再起をかけた映画『エルヴィス・オン・ステージ』でも歌われた「この胸のときめきを」は、日本でもシングルが発売されて38週にわたってヒットチャートに登場した。

「この胸のときめきを」は最終的にはオリコンの5位まで上昇し、売り上げが30万枚を突破して過去のどのレコードよりも日本で売れたのである。

マスコミがそれによって、エルヴィスの話題に乗ってくるようになった。

報知新聞 プレスリー再び脚光! 見直される「源流」
東京新聞 プレスリーブーム再来か!爆発的個性見せる『エルヴィス・オン・ステージ』
夕刊フジ ロックの王者みごとな復活!年男プレスリー、映画にレコード大当たり!

1971年2月11日の朝、丸の内ピカデリーの前には長蛇の列が並んでいた。

その人たちをよく見ると、エルヴィスを知らないような若者たちが多かった。

朝9時半の開場時には1,000人の行列ができて、1回目の上映から早くも満席で立ち見が出た。

『エルヴィス・オン・ステージ』は映画を観るというより、ライブのコンサート体験となっていった。

2回目の上映からは拍手だけでなく歓声が沸き起こったのだが、こんな映画鑑賞は前代未聞のことだった。

その2週間後には銀座、新宿、渋谷、川崎、横浜で拡大ロードショーの上映が始まった。

地方の公開も決まって、『エルヴィス・オン・ステージ』は全国へと広まった。

映画を見て感動した美空ひばりは、同じようなドキュメント構成の『ひばりのすべて』を71年に制作して公開し、ラスベガスにもエルヴィスのショーを見に行った。

新人の頃に「六、七回は観ました」という西城秀樹は、『エルヴィス・オン・ステージ』についてこう語っている。

オンステージは僕の教科書です。
エンターテイナーはかくあるべしという見本みたいなものでした。
僕にとっては全部が教科書みたいなもの。

ロードショー公開が終わった後も『エルヴィス・オン・ステージ』は音楽映画として、繰り返し上映されたことで、エルヴィスの素晴らしさを西城秀樹の世代にまで伝えていったのである。

エルヴィス・プレスリーの楽曲はこちら
西城秀樹の楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち

著者:佐藤剛
ボイジャー

ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。

1966年のビートルズ来日公演、それは今になってみれば、奇跡的といえるものだった。いったい誰が、どのようにしてビートルズを日本に呼ぶ計画を立てて、それを極秘裏に進めて成功に導いたのだろうか? これは日本の経済復興の象徴だったリーディング・カンパニーの東芝電気と、その小さな子会社として生まれた東芝レコードにまつわる、歌と音楽とビジネスをめぐる物語である。

vol.159
vol.160
vol.161