佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 159

Column

西城秀樹とエルヴィスを結び付けたライブ・アルバム~第1回

西城秀樹とエルヴィスを結び付けたライブ・アルバム~第1回

生前の西城秀樹が残した著書『あきらめないー脳梗塞からの挑戦ー』の176ページに、大型ステレオのヘッドフォンでLPレコードを聴いている写真が載っている。
そのキャプションにはエルヴィスのことが、このように書いてあった。

芸映プロダクションの相馬プロデューサーのお宅で居候していた頃、プレスリーの曲をよく聞いていた。

広島からスカウトされて上京した当初、西城秀樹は上条英雄というプロデューサーに歌手の基礎を学ばせてもらいながら、三畳の部屋の片隅に住まわせてもらっていた。

だがRCAからデビューが決まって、プロダクションとしては芸映に所属することになった。

そこで1972年3月に「恋する季節」でデビューするにあたり、相馬家に個室を与えられて居候したのである。

当時のエルヴィスは1968年のNBCテレビ『カムバック・スペシャル』でライブを行なって、復活を遂げたことで大きな注目を集めていた。

しかも8年ぶりに再開したライブの模様を収録したドキュメンタリー映画『エルヴィス・オン・ステージ』が、1970年の秋に公開されて世界中でヒットしたのである。

日本でもこの映画は翌年に公開されたが、デビュー当時のロックンロールの時代とは違って、大人のエンターテイナーの魅力が全開だった。

西城秀樹はそういったライブ・アルバムや映画などから、エルヴィスの影響をあらゆる面で受けたに違いない。

1950年代の後半にエルヴィス・プレスリーから影響を受けたのは、平尾昌晃や山下敬二郎、坂本九といった10代のロカビリー歌手たちだった。

しかし1958年に徴兵されたことでエルヴィスは2年ほど、音楽活動ができない状態になった。

その時期に日本ではカナダ出身だったポール・アンカの「ダイアナ」がヒットし、山下敬二郎の日本語によるカヴァーがそれに続いた。

そして9月には来日公演が行われたことで、ポール・アンカはエルヴィスの印象が薄くなるほどの人気を博した。

一方アメリカでは1960年3月にドイツでの任務を終えて兵役から戻ったエルヴィスが、テレビの『フランク・シナトラ・ショー』に出演して復活をアピールする。

ホストのシナトラに対してエルヴィスはリハーサル時から、「ミスター・シナトラ」 と呼んで敬意を表していた。

そして本番ではタキシードを着用し 新しいシングル盤のAB両面を歌った。
さらにシナトラの大ヒット曲 「ウィッチクラフト」をうたい、その後でシナトラが「ラヴミーテンダー」をうたうと、エルヴィスがハーモニーをつけた。

テレビ用の収録を終えた後、 シナトラはエルヴィスへの評価を一気に高めたという。
アメリカが生んだふたつの異なった世代のアイドルが、テレビで共演した番組は高視聴率を上げて両者に果実をもたらしたのだ。

しかしエルヴィスはその後、パーカー大佐が映画会社と長期の契約をしたことで、ライブを行わなくなってしまう。
そのために日本では歌う映画俳優のように見なされて、 熱心な固定ファン以外に人気が広がっていかなかった。

その映画にしても最初の「ブルーハワイ」などは、観光映画としてよく出来ていたので観客も入ったが、ヒットした1964年の「ラスベガス万才」を最後に内容がマンネリ化し、少しづつ観客動員が下降していった。

ビートルズの来日公演が実現した1966年は、19本目となるエルヴィス映画の『ハーレム万才』が、アメリカやイギリスで大きく評判を落とした。

完成試写の時にも途中で、半分くらいの人が席を立ったという。

イギリスのファンクラブはあまりにイージーな内容だったので、エルヴィスの映画を見に行くのをやめたと宣言したほどである。

そしてエルヴィス本人もつまらない映画ばかりになっていく現実に対して、心の底ではうんざりし始めていたようだ。

1968年はサイケデリックやアングラなど、既成の価値観にとらわれない若者によるカウンターカルチャーが盛んになった。
人種問題を抱えていたアメリカでは大学の民主化が市民運動に発展し、泥沼化していたベトナム紛争に反対する学生運動が活発化して時代が大きく変わりつつあった。

1968年に映画『ブルー・マイアミ』を配給したユナイトは、東京でロードショー公開したが動員は惨敗だった。
億万長者の御曹司が貧乏青年に身を隠して、真実の愛をつかむというストーリーは凡庸すぎて、激動の時代にはまるで通用しなかったのだ。

しかし地方興行では音楽映画との理由で、若きダスティン・ホフマンの演技でおおいに評判になった『卒業』との2本立てで公開された。

サイモンとガーファンクルの「サウンドオブサイレンス」が主題歌となった『卒業』は、青春映画の傑作だとの声が多く、サントラ盤のアルバムがベストセラーになった。

しかし32歳になったエルヴィスの映画が始まると、もはや過去のスターであることを隠しようがなかった。
配給したユナイトは『卒業』の回転率を上げるために、『ブルー・マイアミ』を編集で短縮して上映したという。

やがて日本の映画会社はその年一杯で、プレスリーの映画をまったく上映しなくなった。

ところがアメリカではその頃、テレビの特別番組でプレスリー復活の動きが具体化していた。

12月3日にテレビの特別番組に出演した、エルヴィスが数年ぶりに観客の前にてうたって完全復活したというニュースは、世界中を駆け巡ることになった。

1960年にシナトラと共演して以来のテレビ出演で、全米では瞬間で70パーセントに達する視聴率を上げる成功を収めたといわれた。

その番組名は『NBC TVスペシャル ELVIS』、のちに『カムバック・スペシャル』と呼ばれて伝説化していった。

このテレビ番組をめぐっては従順だったエルヴィスが、マネージャーのパーカー大佐の言うことを聞かなかったという事実が明らかになっている。

それは公の場における、初めての反抗であった。

そもそもクリスマスにむけたテレビ番組を企画したのはパーカー大佐だが、構成案としては映画と同じく低予算で無難なものだった。

エルヴィスがクリスマスソングを26曲歌って、最後に「merry christmas and good night」という言葉で終了することにしていた。

しかし制作を担当したスティーブ マインダーがその構成案に対して、次のような論理でパーカー大佐を正面から説得した。

「この特別番組があのくだらない映画の繰り返しになったら、それでエルヴィスは1巻の終わりとなる。50年代に登場したひとつの現象としてしか記憶されないだろう。だが今でも自分がナンバーワンであることをエルヴィスが実証してみればせれば、完全に蘇生していくだろう」

自分の企画に従わないスティーブに怒った大佐は、「クリスマスソングをやりたいんだなぁ、そうだろうエルヴィス」と訊くと、 エルヴィスは黙って頷いたので話し合いは終わった。

しかし大佐がいなくなるとエルヴィスはスティーブに向かって、「かまわない、クリスマスソングはやめよう」と返答し、制約を失くしたところで選曲や構成の準備に入った。
そして12月3日の夜9時、NBC TVスペシャルが放映されたのである。

番組の収録でスタジオに入れた観客を前にして、時に笑顔を浮かべながら次々に歌いまくったエルヴィスは、ここでまったく新たなイメージを打ち立てた。

そして自分が現役のトップ・スターであることを、これでもかというくらいに見せつけたといえる。

ニューヨークタイムズ紙はすかさず、「コップの世界を幻想から現実に引き戻したエルヴィスはカリスマ的である」と絶賛した。

そうしたニュースが外電で世界中に流れたことで、日本でもエルヴィスが復活する兆しが見えてきた。

久しぶりにヒットパレードの上位に新曲がランク入りし、昔からのファンも急速に盛り上がってきた。

そこにラスベガス公演を9月に行ったエルヴィスが、4週間で15万人もの観客を集めたというニュースが流れてきた。

それとともに実況録音盤のアルバムが11月になって、2枚組のアルバムとして発売されて好セールスを記録した。

このころからエルヴィスは自分の言葉で、 外に向かって話すようにもなっていく。

Q:どうしてこんなに長い間、生のステージをしなかったのですか
A:私たちには先にやらねばならぬ映画の契約があったが、観衆との生の接触がなくて寂しかった。カメラの前で歌い続けるのが嫌になってきました。
Q:ショーでの曲目はどのようにして選んだのですか
A:ただ私の好きなものを歌っただけです。

そして年が明けた1月には日本でも、『NBCTVスペシャル ELVIS』がオンエアされることになった。

エルヴィス・プレスリーの楽曲はこちら
西城秀樹の楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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