横川良明の演劇コラム「本日は休演日」  vol. 32

Column

三谷幸喜が舞台『大地』で贈った、すべての俳優へのメッセージ

三谷幸喜が舞台『大地』で贈った、すべての俳優へのメッセージ
今月の1本:PARCO劇場オープニング・シリーズ『大地』(Social Distancing Version)

ライター・横川良明がふれた作品の中から、心に残った1本をチョイス。独断と偏見に基づき、作品の魅力を解説するこのコーナー。
今月は、実に5ヵ月ぶりに新作をご紹介します。選んだのは、PARCO劇場オープニング・シリーズ『大地』(Social Distancing Version)。三谷幸喜の作・演出によって描かれた、俳優と演劇に関する物語の魅力を語り尽くします。

Zoomの画面のような舞台美術で演じられる、コロナ禍の演劇

新型コロナウイルスの脅威は、演劇の世界をまるごと変えてしまった。劇場は長い長い眠りにつき、目を覚ましたそのあとも定員の半分以下に間引かれた客席や、静かなロビー、ダブルコールのないカーテンコールなどすっかりその姿を変え、私たちが愛した、あの賑やかで、幸福な予感に包まれた景色は、まだ完全に戻ってはいない。

それでも、演劇の火を消してはならないという舞台人の祈りにも似た覚悟のもと、今のこの世相を映した作品が少しずつ発表されはじめている。三谷幸喜の『大地』はその先陣を切る1本となった。

舞台は、とある共産主義国家。独裁政権が遂行した文化改革の中、反政府主義のレッテルを貼られた俳優たちはある施設に強制収容された。そこで生活を共にするのは、映画スター・ブロツキー(山本耕史)。美しき女形・ツベルチェク(竜星 涼)。大道芸人のピンカス(藤井 隆)。若き演劇学生・ミミンコ(濱田龍臣)。やや性格に難のある役者兼演出家・ツルハ(相島一之)。世界的パントマイマー・プルーハ(浅野和之)。「座長」と呼ばれる演劇界の大物俳優・バチェク(辻 萬長)。そして、役者としての腕は三流のため裏方仕事についているチャペック(大泉 洋)の8人だ。

彼らが疑似家族ならぬ疑似劇団のような関係を築きながら、「演じること」を奪われた冬の時代を生きる姿を、三谷らしいユーモアとシビアさを織り交ぜながら描いていく。

(Social Distancing Version)と付加されている通り、本作は時勢を鑑み、ソーシャルディスタンス対策を踏まえた舞台演出がなされている。たとえば、俳優同士、至近距離ではほぼ喋らない。殴る、肩を組むなどの密着行為はしない。など、影響は随所に見られるが、いちばんわかりやすいのは舞台装置だろう。

8人の暮らす収容所は9つに区切られたマス目の中にそれぞれの生活スペースがあり、その様子はまるでZoomなどのオンライン会議ツールの画面のような印象を与える。参加人数に合わせて仕切られた画面の枠が舞台装置によく似ていて、それぞれのテリトリーで思いおもいに過ごすさまは、すっかり見慣れたリモート会議やオンライン飲みのようだ。

遠い時代、遠い国の物語という設定を借りながら、今の私たちをそこに投射するような、虚実皮膜の世界がそこにつくり出されていく。

いかなる権力も、想像力だけは奪えない

演劇の火を消してはならない。この前代未聞の災禍に見舞われたとき、多くの舞台人がそう口にした。不要不急という言葉が振りかざされるたびに、エンターテインメントは確かに不要不急かもしれない、けれどエンターテインメントがなければ生きている喜びを感じられない人もたくさんいる。そう抗弁してきた。

この『大地』からは、そんな演劇の底力が伝わってくる。

その美しさから政府役員のドランスキー(小澤雄太)に目をつけられたツベルチェク。ドランスキーは権力を行使してツベルチェクに接待を強要する。そして、その褒美として振る舞われたのが、ゆで卵。ツベルチェクの尊厳と引き換えに施されたそれを食べようとする者は誰もいない。しかし、それを反抗的と見なした指導員のホデク(栗原英雄)は、彼らに食事抜きを言い渡す。ホデクの機嫌をとろうとしたチャペックはゆで卵を頬張るが、残りの7人はマイムで晩餐を演じ、権力に逆らう。

権力がいかに我々からすべてを取り上げようと、想像力だけは奪えない。

透明のグラスで乾杯し、透明のご馳走に舌鼓を打つ彼らはとても幸せそうで、語り部を務めるミミンコは人生でいちばんのご馳走と言えばきっとこの日のことを思い出すだろうと振り返った。一方、ひとりゆで卵に手を出したチャペックは晩餐の輪に入れず、ひっそりと乾杯をする。

はたから見れば愚かかもしれない。だけど、当人たちにとってはこれが幸せ。こうした選択は実に三谷幸喜らしい描写だし、何があろうと屈しない演劇人のプライドのようなものも感じた。演劇は、負けない。演劇を、奪わせはしない。このコロナ禍だからこそ、その姿勢は一層尊く映る。

演劇が、権力に屈することは本当にないのか

だけど、三谷幸喜は人間の優しさやいとおしさを軽妙に描く一方で、人間のズルさや卑怯さ、残酷さもまたシビアに切り取る作家でもある。演劇は、本当に誰も奪われないのか。演劇が、権力に屈することは本当にないのか。1幕で掲げた主張に対し、2幕で自らが反論する。

ミミンコの恋人・ズデンガ(まりゑ)を、監視の目を盗んで連れてきたチャペックたち。若いふたりに束の間の恋人同士の時間を過ごさせてあげようと、ドランスキーを芝居の力で引き止めるのだが、あるミスによって、収容所にズデンガを連れてきたことがドランスキーに知られてしまう。

ドランスキーのくだした罰は、この中の1名を、ここよりさらに過酷な環境として知られる谷の向こうへ送還すること。谷の向こうに行けばもう帰ってこられない。誰を生贄に差し出すのか。それまでのドタバタ劇が嘘のように重い空気が舞台上を支配する。

恋人と密な時間を過ごした。たったそれだけで処罰の対象となる。それはまるで今の「自粛警察」の暗喩のようで。誰が犠牲になるか、仲間たちの間で繰り広げられる口論も、責任逃れや自己正当化が噴出。高名であるというだけで優遇される不平等は、昨年よく耳にした「上級国民」という言葉を連想させる。三谷が炙り出すのは、遠い国の遠い時代の誰かではなく、今この時代を生きる私たちだ。

結局、誰も権力に立ち向かうことはできず、ある者が犠牲となった。演劇は、負けない。演劇を、奪わせはしない。1幕の終わりの晩餐で感じた強く温かい意志は、もうそこには見えない。彼らが権力にかしずくことで失ったものは何だったのか。最後のバチェクの台詞と、照明に照らされた無人の「居場所」がやるせなく胸を衝いた。

たとえ明日がわからなくても、今日できることをする

俳優が演じることを禁じられるというこの戯曲自体は、コロナの感染が拡大する以前に書き上げられたものだという。確かに、この作品の中で俳優たちが戦っているのは、未知のウイルスではなく、権力である。それが、不思議なめぐり合わせでこのコロナ禍に上演されることとなった。これ以上ないほどの意味を伴って。

「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」

劇中でも引用されたマルティン・ルターの名言だ。何が起ころうと、自分は自分のやるべきことをやる。そんなルターの言葉になぞらえて、俳優たちはこんなことを言っていた。

「やるべきことはわかっている。発声練習と柔軟。覚える台詞があるならそれを覚える。そう、たとえ明日地球が滅ぶとしても」

この言葉に、きっと多くの俳優と演劇関係者が勇気づけられたことだろう。ある日突然、多くの俳優と演劇関係者が仕事の場を奪われた。ただ家の中にじっとこもり、時が過ぎるのを待つしかなかった。収入は途絶え、生活は窮する。タイムラインに流れてくる「全公演中止」の文字は、そのたびにまったく錆びつくことのない鋭さで胸を切りつけた。

今もまだ舞台に立てない日々を過ごしている俳優もいる。そして、稽古に取り組むチャンスを得られた者だって、本当に幕が上がるのか、確信は持てない。明日がどうなるかなんて誰にもわからない。

それでも、俳優である限りやるべきことはひとつなんだ。発声練習と柔軟。覚える台詞があるならそれを覚える。そう、たとえ明日地球が滅ぶとしても。

それは、37年もの間、舞台の世界で生きてきた三谷幸喜から贈る、すべての俳優たちへのメッセージだ。

PARCO劇場オープニング・シリーズ
『大地』(Social Distancing Version)

東京公演:2020年7月1日(水)〜8月8日(土)PARCO劇場
大阪公演:2020年8月12日(水)〜8月23日(日)サンケイホールブリーゼ
※WOWOWメンバーズオンデマンド、イープラス「Streaming+」、PIA LIVE STREAMでのライブ配信を実施

作・演出:三谷幸喜

出演:
大泉 洋 山本耕史 竜星 涼 栗原英雄 藤井 隆
濱田龍臣 小澤雄太 まりゑ 相島一之 浅野和之 辻 萬長

オフィシャルサイト

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