佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 156

Column

エルヴィス・プレスリーと西城秀樹を結び付けたのは、ロックンロールという新しい音楽だった~第2回

エルヴィス・プレスリーと西城秀樹を結び付けたのは、ロックンロールという新しい音楽だった~第2回

20世紀のアメリカを代表する音楽家のバート・バカラックが、ロックンロールについて語った有名な言葉をまずは紹介しておきたい。

「ロックンロールが世に出た時、識者はこれを見逃した、ティーンエイジャーのほうがいい感覚を持っていた。彼らの音楽性、ビート、そして価値観は正しかったのだ」
(永六輔 著『役者その世界』 文芸春秋 1971年)

ティーンエイジャーに大きな影響力を与えたのは、新しいメディアとして急速に広まっていたテレビだった。
エルヴィスがメンフィスのインディーズだったサン・レコードからデビューした1955年、アメリカではテレビの世帯普及率がすでに64.5パーセントにも達していた。

そこからアメリカだけでなく世界的な人気歌手としての地位を確立することができたのは、1956年にメジャーのRCAに移籍して第1弾の「ハートブレイク・ホテル」が、1月の発売と同時に爆発的なヒットになったからである。
RCAが開発した45回転のシングル・レコードはビルボード・チャートで1位になり、売り上げも200万枚を突破してゴールドディスクに輝いた。

ロックンロールはそれ以前にも存在していたが、白人のエルヴィスが唄って脚光を浴びたことによって、カッコよくて新しい音楽だという認識が世界中の若者たちに広がっていった。
15歳のティーンエイジャーだったイギリスのジョン・レノンは、初めて「ハート・ブレイク・ホテル」 を聴いた瞬間のショックを、簡潔にこう述べていた。

「あれ以降、僕の世界は変わってしまった。 エルヴィスは僕の人生を変えてしまったんだ 」

誰もが聴いたら忘れられないギターのイントロから始まるアメリカン・ロックの「ホテル・カリフォルニア」は、イーグルスのギタリストだったドン・フェルダーが作曲して1976年に発表された。
彼が音楽の世界に憧れるようになったきっかけも、1957年1月にテレビで観たエルヴィスに出会ったことだった。
人気テレビ番組の「エド・サリヴァン・ショー」に3回目の出演を果たしたときに、ドンはまだ9歳の小学生だった。

彼は「ハウンド・ドッグ」、「ハートブレイク・ホテル」、「やさしく愛して」を歌い、僕は完全にぶっ飛んでしまった。
“骨盤(ベルヴィス)エルヴィス”との異名を持つそのセクシーなダンスには抗議が殺到したため、画面には上半身しか映されなかったが、あんな動きはそれまで観たことがなかった。
(ドン・フェルダー 著『ドン・フェルダー自伝 天国と地獄 イーグルスという人生』 山本安見訳東邦出版)

ラジオやテレビ、レコードで知ったエルヴィスに対して、多くのティーンエイジャーたちはその歌声と音楽だけでなく、映画やテレビでのステージ・アクションにも目を見張った。
エルヴィスの動きということでいえば、ダンスが得意だったという母親さながらに、腰を動かして下半身でリズムを取りながら、踵を、あるいはつま先を左右に大きく振る足の動きは、とくに印象に残るものであった。

それにしてもエルヴィスはこうした動きをいつ、どこで覚えたのだろうか。

下積み時代と呼べる時期が少なかったエルヴィスは、デビュー以前に人前で歌った経験は、数えるほどしかなかったはずだ。

ひどく内向的な性格だったので音楽に対するひたむきな情熱と、スターになりたいという野心はあっても、人前に立つことには不慣れだった。
それなのにステージ・アクションは、誰にもまして突出していたのである。

そこで日本で1971年11月30日に発行されたジェリー・ホプキンズの単行本、『ELVIS』(片岡義男・訳 角川書店)を参考にしながらぼくなりに考察してみることにした。

そもそも彼がクラウン電気会社でトラック運転手の仕事をすることで得た収入の中から、レコーディングのためにお金を使ったのは、自分の歌を母親にプレゼントして喜んでもらうためだった。
そんなふうにして知り合ったエルヴィスの歌唱力に気が付いて、自社のプロジェクトに参加させてバンドを組ませ、そのなかで歌やアレンジの指導をしながら育てたのが、スタジオのエンジニアだったサム・フィリップスである。

メンフィスのローカル・レーベル「サン・レコード」のオーナーでもあったサムは、エルヴィスの第一印象について、「おそらくスタジオにやってきた誰よりも、本質的に内向的な人間だった」と語っている。
しかし白人なのに黒人のフィーリングで唄えることに気づいたサムは、未知の可能性を感じて一緒に音楽づくりを手伝ったのだ。
そして21歳のギタリストだったスコティ・ムーアと引き合わせて、3人でサウンドの方向性を納得がいくまで追求していった。

その頃のエルヴィスは昼休みになると地元の放送局に出かけて、「ハイヌーン・ラウンドアップ」という生放送のラジオ番組の収録を見学していた。
一時間の番組は前半にカントリー・ミュージックのアーティストたちが出演し、後半にはゴスペル・グループが盛り上げていった。

これは幼い頃からエルヴィスが体験した、音楽的な環境そのものとも重なっている。

初めてプロとして人前で歌ったのは、サン・レコードから最初のレコード「イッツ・オールライト、ママ」を発売して11日後、1954年7月30日のことだった。
この日、ステージに上がったエルヴィスとバンドのメンバーを驚かせたのは、登場しただけで悲鳴を上げる女性の観客たちがいたことである。

これはデビューして間もないにも関わらず、サムがラジオを通じて流したレコードを聴いて、早くもファンができていたという証だった。
だがエルヴィスはいったい何が起きているのかと、当初はかなり困惑したらしい。

当時の音楽業界においてジャズやポピュラーソング、クラシック、カントリー、そしてダンス音楽はいずれも大人が楽しむ娯楽であった。
若者にも人気があるアイドル的な存在といえば、フランク・シナトラぐらいのものだったという。
そこにティーンエイジャーが夢中になれる対象として、黒人のリズム&ブルース(ロックンロール)が徐々に台頭し、それとともにエルヴィスが登場してきたのである。

手足が震えるほど緊張しながら歌い始めたエルヴィスが、リズムに合わせて、足首を左右に振ってみせると女性の観客たちから一斉に悲鳴が上がった。

その動きは敬愛する人気ゴスペル・グループ、ザ・ステイツメン・カルテットのバリトン担当、ジム・ウェザリントンが見せる動きに影響されたものであった。

幼い頃に彼らのステージを観たエルヴィスは、ジムが足を動かすと観衆が盛り上がることを覚えていたのだ。
自分がどう動けば観客を熱狂させることができるのか、その点においてエルヴィスには天性のセンスが備わっていたと言える。

リズミカルな足の動きに合わせて腰を揺らし、それらが自然に上半身を躍動させていった。

その後はライブを行うたびに動きはダイナミックになり、黒人ミュージシャンたちのパフォーマンスを取り入れることで、よりエキサイティングなものになった。

このあたりの成長ぶりについては、唄いながら自然にアクションができるようになった若き日の西城秀樹が、試行錯誤しながら自分のスタイルを確立していった姿と通じている。

ところで作詞家の安井かずみが横浜のフェリス女学院高等学校に通っていたティーンエイジャーの頃に、大きな影響を受けた音楽も「ハートブレイク・ホテル」であった。
しかも彼女はセクシーで情熱的なエルヴィスの歌唱だけでなく、ハートブレイクという心の状態とホテルを結びつけた、斬新な発想の歌詞にひらめきを得たと語っていた。

将来の仕事となる作詞家・安井かずみへの道が、そこから見え始めてきたのかもしれない。

エルヴィスがドイツで2年間ほどの兵役を終えて帰還した1960年、音楽活動を再開するにあたって準備された映画とアルバムは、実体験を想像させる『GIブルース』であった。

そこで主題歌になった「GIブルース」を日本語でカヴァーしたのが、早い時期からエルヴィスの熱心なフォロワ―だった19歳の坂本九である。

その訳詞者のペンネームはみナみカズみ、すなわち安井かずみだったというのも、ぼくにはどこか運命的だと思えてならない。

1974年に2曲続けてヒットチャートの1位に輝いた「ちぎれた愛」と「激しい恋」は、ともに安井かずみの作詞、作・編曲は馬飼野康二だった。

西城秀樹は安井かずみの作品に出会ったことによって、未知の新人という位置づけから、一流の歌手へと成長していったのだ。
晩年になってから西城秀樹は著書の中で、デビュー当時のことをこのように回想している。

一九七二(昭和四十七)年三月、十六歳のとき、『恋する季節』というシングルで、ぼくは歌手デビューした。このレコードはそれほどの売り上げも出せず、その後、四曲目までは、鳴かず飛ばずだった。
「ベストテンに入ったぞ。これでいけるかもしれない!」
事務所が盛り上がったのが、五曲目の『情熱の嵐』だった。この曲で西城秀樹の名前も全国区になった。
翌年、十八歳のときに、『ちぎれた愛』が発売になり、オリコンでも一位になった。初めて紅白歌合戦に出場したのもこの年で、ぼくは派手なアクションで熱唱した。
(西城秀樹 著『あきらめない – 脳梗塞からの挑戦』 リベロ 2004年)

エルヴィスの楽曲を数多くカヴァーしているが、ロックンロールを通してステージ・アクションでもつながっていたことになる。

エルヴィス・プレスリーの楽曲はこちら
西城秀樹の楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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