佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 155

Column

エルヴィス・プレスリーと西城秀樹を結び付けたのは、ロックンロールという新しい音楽だった~第1回

エルヴィス・プレスリーと西城秀樹を結び付けたのは、ロックンロールという新しい音楽だった~第1回

ふたつのジャケットは誰が見ても一目瞭然、エルヴィスへの思慕の念が感じられるデザインだった。

エルヴィスのレコードは1970年にアメリカで発売された、ライブ・アルバムの『ON STAGE』。

西城秀樹のレコードはそれから4年後、1974年2月に発売されたライブ・アルバム『西城秀樹リサイタル/ヒデキ・愛・絶叫!』。

時空を超えてこの両者を結び付けたのは、1950年代のアメリカに誕生して新しい時代の音楽となったロックンロールである。

エルヴィスはメンフィスのローカルレーベルだったサン・レコードから、1954年に「ザッツ・オール・ライト、ママ」でデビューしている。

そして2枚目のシングル「今夜は快調」では、世界にまで影響力を持つ音楽雑誌のビルボードに大きく取り上げられた。

そこではエルヴィスに対して、「叩き込むようにうたう新しい歌手」という、肯定的な評価があたえられただけでなく、もっと重要なことがこんな冷静な文章で述べられていた。

エルビスはカントリー、リズム・アンド・ブルース、ポップスのいずれの分野にもアピールする力を持っている。この三つにまたがるレコードは、まだすくなかった。

1956年1月からメジャーのRCAに移籍したエルヴィスは、ファースト・シングルの「ハートブレイク・ホテル」が初の全米No.1を記録し、アメリカばかりかヨーロッパでも脚光を浴びた。

それを後押ししたのは新しいメディアとして、強い影響力を発揮していたテレビジョンだった。

ただし敗戦からの復興途上にあった日本では、テレビは一般家庭にまだ普及していなかった。

ここまでの文章から初期のエルビスがたどった足跡をまとめてみると、「恋する季節」でデビューしてから2年目に「ちぎれた愛」と「愛の十字架」でNo.1ヒットを放った西城秀樹と、どことなく重なっていることにぼくは気づかされた。

小学生の頃から兄が組んでいたエレキバンドでドラムを担当していた西城秀樹は、それまでの日本にはない環境で育ったミュージシャンで、まさに「叩き込むようにうたう新しい歌手」だった。
しかも邦楽や洋楽といった壁をなんなく乗り越えて、どんなジャンルの音楽でも自分のものにして、自在に唄うことができた。

そこには時の運があっただろうし、人並み以上の努力をしたのも事実だろう。

だが最初からロックンロールのセンスが突出していたからこそ、それらを現実のものにすることが可能になったともいえる。

さらにはカラーテレビの普及によって日本でも音楽番組が見せる要素を打ち出したこともあり、西城秀樹は恵まれた容姿と激しいアクションで人気が上昇した。

しかしアメリカのビルボード誌がエルヴィスを見出したように、的確な批評に恵まれることはなかった。

そのために見た目の印象だけで、アイドルというカテゴリーにくくられてしまった。

当時の日本にはアイドルの歌唱や表現力、作品について批評するジャーナリストや音楽評論家はいなかった。

さて、テレビの人気番組だった「エド・サリヴァン・ショー」に1956年の秋から連続出演して人気が爆発したエルビスは、1957年1月に「ハートブレイク・ホテル」を発売する段階で、社会的な現象を巻き起こす存在になっていた。

だが日本でレコードが発売されたのは、そこからわずか半年前のことであった。

エルヴィスのレコードに対する最初の紹介記事が、1956年9月号の音楽雑誌『ミュージックライフ』に掲載されている。

「★今月のスイセンレコード★」というコラムを書いたのは、後に日本テレビの音楽番組のプロデューサーとして、大きな功績を残した井原高忠である。

それに先駆けて5月14日発行の週刊誌「タイム」と「ニューズウィーク」が、筆をそろえるかのように過熱する一方の人気を取り上げた。

エルヴィスの周囲に群がる10代の男性は狂騒的なロックンロールに酔い、女性たちは煽情的に歌う姿に目を輝かせているという内容だった。

そのことに対して不安を感じた大人たちから、一斉に非難の声があがったのも当然だろう。

社会の秩序を乱して道徳を低下させると攻撃されていくなかで、「わけのわからないもの=ゲテモノ」といったレッテルが貼られた。

そんな話題が先行したせいで日本では最初の段階から、流行の兆しを見せていたカントリーから出てきた変わり者だが、下品で野卑なキワモノだという誤った先入観が植え付けられたのだ。

まともな情報が少なかったこともあって、井原が書いた4曲入りデビュー盤「エルヴィス・プレスリー・スタイル」を紹介する文章が、そこからしばらくの間は定説となってしまった。

(1)ブルー・スエード・シューズ
云うまでも無くチャーリー・パーキンスのヒットで本年三月以来ベストセラー上位を占めている曲だ。十二小節のブルースコードと十六小節とがチャンポンに飛び出して来る。勿論R&B的な曲。(注)

(2)ブルームーン
ジャズのスタンダードで御承知の曲を彼なりに焼きなおそうとしたらしいが、結果は余りにも香しく無い。音程も悪く人気ばかりが先に出て、実力を持たざる者の悲哀をみせつけられる。

(3)ツッティー・フルッティ
十二小節一区切りのアフター・ビートで、歌、曲ともにくだらないが、R&Bの持つ魔薬的な魅力が人の心を捉える。但しお粗末なエレキと情緒不足のエンディングが気になる。「ツッティー・フルッティ」が「チュリ・フリイ」と聞こえる。

(4)マネー・ハニー
いかにも太陽族的で余り品は無い。八小節づつが一区切りの三十二小節ものである。
以上四曲で大体流行児エルヴィスの片鱗を窺い知る事が出来る。その意味で興味ある盤と云えよう。

後に日本テレビの『光子の窓』『九ちゃん!』『ゲバゲバ90分』といった人気番組をプロデュースした井原ほどの人物でさえも、最初のうちは実力が備わっていない流行現象だろうと、上から目線で様子を見ていたことが伝わってくる。

なお文中の”太陽族”とは”当時の不良の代名詞で、石原慎太郎の芥川賞受賞作「太陽の季節」が語源となっていた。

アメリカ生まれのロックンロールという新しい音楽は、まだ海のものとも山のものともわからない、不思議なものだったのである。

ちなみに西城秀樹がアメリカの投下した原子爆弾で、壊滅的な被害を受けた広島で生まれたのは、エルヴィスの人気に火が付き始めた1955年の4月13日だった。

日本で本格的にロックンロールが流行するのはそれから2年半後になるのだが、当時はロカビリーブームという名で呼ばれていた。

しかし中心人物であるべきエルビスはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けて、1958年から二年間の兵役についてドイツに赴任して不在であった。

そのためにタイミングが合わないままエルヴィスは日本のロカビリーブームでも、それほど注目されることなく終わった。

エンターテイナーとしての真価が存分に発揮されるのは1968年にアメリカのNBCで放送された、テレビ番組『ELVIS(通称68カムバック・スペシャル)』が驚異的な成功を収めてからのことになる。

<参考文献>ジェリー・ホプキンズ著「ELVIS 」(訳・片岡義男 角川書店 1971)

エルヴィス・プレスリーの楽曲はこちら
西城秀樹の楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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