STAGE SIDE STORY〜エンタメライター 片桐ユウのきまぐれ手帖〜  vol. 6

Column

vol.6 “フェイスシールド観劇”

vol.6  “フェイスシールド観劇”

演劇、舞台をメインに執筆しているライターの片桐ユウが、芝居やエンターテインメント全般に思うことを綴っていくコラム。
作品は人に様々な感情をもたらすもの。その理由やルーツを訪ねて飛び回ってみたり、気になった場所を覗き込んでみたり、時には深堀りしてみたら、さらに新しい気づきがあるかもしれない。“エンタメ”とのコミュニケーションで生まれるものを、なるべく優しく大切に。

今号では、この状況下での演劇体験で感じたことを。


マスクを着けた観劇とマスクを外した演劇

「ちがう いのちは闇の中の またたく光だ!!」
──『風の谷のナウシカ』(ナウシカ)

慎重な配慮を重ね、様々な工夫を凝らしながら、劇場が幕を上げるようになった。
関係者各位の気が遠くなるような課題やリスクを考えると、手放しで喜んでいいのか躊躇いを感じるけれども、やはり“活動”の光を目にできるのはとても嬉しいことだ。

7月1日(水)からPARCO劇場で開幕した三谷幸喜による新作舞台は『大地(Social Distancing Version)』というタイトルに。演じることを禁じられた俳優たちが収容された施設という設定をうまく活かした演出で、役者同士の距離を保った。

舞台『刀剣乱舞』シリーズ(通称・刀ステ)の最新作は、科(しぐさ)と白(せりふ)による“科白劇”に変更。7月16日(木)に初日を迎えた科白劇 舞台『刀剣乱舞/灯』綺伝 いくさ世の徒花 改変 いくさ世の徒花の記憶(“綺伝 いくさ世の徒花”に取消線が入る)は、公開された舞台写真の通り、口元のみのフェイスシールドが使用されている。

“刀ステ”では、実際に劇場にて“口元フェイスシールド付き”の上演を観劇したが、意外なほど気にならなかった。
さらに告白すると、自分自身がフェイスシールドを着用しての観劇でもあった。観劇中はマスク着用の上、私はメガネも使用していたので[メガネのレンズ+フェイスシールド×2]越しの役者陣の表情ということになったのだが、それでも個人的には「気にならなかった」と言える。

どれだけこのスタイルが続くのかは分からないが、まずはイチ観劇者の体験談として“フェイスシールド観劇”について簡単に記録しておきたいと思う。

開演前、フェイスシールドを組み立てるという工作タイムが必要だったことには少々驚いたが、感染症拡大防止の観点からいえば、装着する本人が作ることが一番理にかなっているのだろう。
フェイスシールドの袋に同封されていた取扱説明書に加えて、現場のスタッフによる指導もあり、フェイスシールドを必要とする列の観客は全員トラブルなく装着できていたようだった。

マジックテープを頭の後ろで留めて、フェイスシールド越しに舞台後方に浮かぶスクリーンのタイトルを見たときは、文字が滲んでいるように見えて「マジか」と慄いたのだが、いざ開演するとフェイスシールドの存在感はほぼ消滅した。

まず圧倒的に軽い。上演時間内程度なら頭の締め付けがキツく感じることもないし、重くて邪魔だと思うこともなかった。
そして視界がぼやけるのではないかという危惧は、少なくとも正面の視野に関していえばほとんど感じることなく済んだ。
ただフェイスシールドは婉曲しているため、その歪みの部分にはどうしても照明が反射して光のラインが入る。私はサンバイザーのように少し角度を付けて装着してしまったため、自分の顎ラインにも光の歪みが生じていた。

それでも客席の位置上、大体は見上げての観劇になるため、フェイスシールドの下部で光が反射している位置に役者がくることは全くない。
そして側面に入る反射も、目線移動ではなく首ごと視野を移動させれば問題はなかった。いつもならば大きく首を振るのは周囲に迷惑がかかるだろうと躊躇してしまうが、これは前後左右が空いている状態の“ソーシャルディスタンス指定席”だからやれたことだ。

同じ位置で同じ演目をフェイスシールドの「有り」「無し」で観劇して見比べてみるなどしたら細かな違いは出るかもしれないが、思ったほど観劇には支障がなかったという体感が正直な感想である。

キャストが装着していたフェイスシールドの方は、観劇者一人ひとり感想が違うかもしれない。その上で重ねて言うが、一個人としては全く気にならなかった。
講談師の起用や、様々な方向性に渡り工夫を凝らした演出によって、すんなりと舞台に惹き込まれたからという理由が一番大きいと思う。

そして、本来は不自然である姿や距離の取り方を物語に取り込むことができたのは、“演劇”には「見えるものを見えないものとして」「見えないものを見えるものとして」扱う伝統があったからではないだろうか。

舞台上は、「ここは戦国!」といえば戦国時代になるし、「余の辞書に不可能はない」といえばその人はナポレオンになるような、すごい世界だ。

とは言え、この大前提にも知識や前情報は多少必要で、「そういうもの」だと分かっていないと、舞台上の世界をまるっと変えてしまうミラクルな魔法は効きづらいこともある。
例えば歌舞伎の黒衣(くろご)に対して「あの全身黒い服装の人は、いつまでそこに居るんだろう?」とソワソワしてしまう、かつての自分のように。

「スコーン!」と一瞬で恋に落ちるように魔法にかかるタイプと、かかりづらいタイプがいるとすれば、私は確実に後者だったので、観劇初心者の頃は「ベニヤ板に描かれた家」「貧乏農家の娘という設定の女優さんがメイク」「胸元のピンマイク」などなど、もう違和感だらけで脳内が大変なことになっていた。
ちなみにメイクの件は当然“舞台メイク”だったのだが、それにすら「ゴールドラッシュ時代の田舎の娘さんがアイライン引いているのって、おかしくない?」という観点で皮肉に見ていた。ある意味では物語に対して素直すぎたと言えるのだろうか。しかしアメリカ人という設定で日本語を話すことは一体どう解釈していたのか。昔の自分に冷たいツッコミを入れたい。

しかし、そんなナナメからの目線を持っていても、いつの間にか物語の面白さに心を掴まれ、役者の熱演に惹き込まれ、驚くような演出によってその世界へと入り込み、徐々に舞台上の「お約束」を理解できれば、すっかり“演劇”の魔法に酔いしれることができる。
平面の家やちょっとよれたメイク、まして透明マスクの存在感なんて、舞台の吸引力と己の集中力・想像力があれば、どこかへ飛んでいってしまうのだ。

そして舞台に生きる人々の感情に揺さぶられ、泣いて笑って胸に刻まれたその気持ちを現実世界に持って帰ってきて、それが辛いときの支えになったりする。本当に、すごい世界だと思う。

久々の劇場で、自分の中で違和感が消滅していく演者たちのマスク(フェイスシールド)を見ながら、“マスク繋がり”で思い出したのが、去年末に上演された新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』だ。

宮崎 駿による原作の前置き文を借りると「巨大産業文明が生まれて1000年後。“火の7日間”と呼ばれる戦争によって崩壊し、不毛の地と化した世界」での出来事を描いた話。
その世界に登場する“腐海(ふかい)”は、過去の文明に汚染された大地に生まれた「新しい生態系の森」であり、人類にとって有毒の瘴気を発しているため、腐海の中で呼吸するには“瘴気マスク”を装着しなければならない。

新作歌舞伎として上演された『風の谷のナウシカ』では、冒頭で腐海を散策するナウシカ(尾上菊之助)の姿が描かれる。
瘴気マスクをして登場したナウシカは、途中でさり気なくその小道具を外す。瘴気マスクは原作通り目元以外を覆うような作りをしており、そのままでは役者の表情はおろか台詞もままならない。
外すのは当然のことなのだが、私はそこに舞台上と観客の間で生まれる信頼関係のカタチを見ていた。

尾上菊之助が5年前から歌舞伎にしたいと切望して、遂に実現の運びとなった作品。開幕からその本気度は凄まじかった。世界の救世主と伝わる“青き衣の者”を描いたタペストリー幕、腐海に住む蟲の王・巨大な王蟲の抜け殻。それらの精巧な作りは、何十回とナウシカの原作を読み返している自分でも「参りました!」「ありがとうございます!!」と頭を下げたくなるような迫力があった。
だからこそ、「マスク無しでは5分で肺が腐る」とされる腐海の場面でナウシカがマスクを外しても、憤ることなく納得できたのである。

上記に挙げた“刀ステ”と“歌舞伎ナウシカ”は、「マスクを着ける」「マスクを外す」という真逆の行いだが、双方に共通していたものこそ「演劇の伝統」なのだと思う。
これは「お約束」を舞台上と客席側が交わす、「信頼関係」の言い換えともいえる。「こういうものだ」という説得力さえどこかに感じ取ることができれば、そこに舞台と観客の間で「共犯関係」にも似た見えない取引が成立するのだ。
きっとそれはとても大切な、“演劇”の芯となるもののひとつではないかと思う。

この時代に漂う空気は、正直まだ息苦しい。
「気軽に」劇場へ足を運び、「当たり前のように」演劇を見るという、これまで通りの生活を取り戻すのは難しく、舞台上の「ソーシャルディスタンス」や「飛沫防止」「密を避ける」というルールが消えるにも時間がかかりそうだ。

それでも「見えるものを見えないものとして」「見えないものを見えるものとして」楽しむ心意気が観る側に備わっていれば、それと同時に熱量を持って体現する演者と諦めない演出があれば、“演劇”はまだ、呼吸ができる。

文 / 片桐ユウ

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