佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 153

Column

弘田三枝子を悼む〜一瞬だった天才のきらめき

弘田三枝子を悼む〜一瞬だった天才のきらめき

7月27日の真夜中、横になってもなかなか眠れないまま、午前3時台のNHKラジオ深夜便が洋楽のカヴァー曲を特集することがわかったので、それを聴くことにした。
すると1曲目に流れてきたのが、ミコちゃんこと弘田三枝子の代表曲の「ヴァケーション」だった。

それはもう実に素晴らしい歌声で、一瞬にして半世紀以上も前に身体ごと連れていかれた気になった。

この曲がヒットしたのは1962年の10月から翌年にかけてのことだったが、日本の中学生が唄っているとは思えないくらい、ミコちゃんからは圧倒的な迫力が伝わってきた。
ぼくもまだ小学生だったが、そのパワフルな歌唱力に思わずたじろいだことを覚えている。

コニー・フランシスが唄ったオリジナルは、1962年7月にのアメリカで発売されて、ビルボード誌ヒットチャートでは最高9位だった。

日本でもすぐに青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子、安村昌子らによってカヴァーされて競作になった。

そして弘田三枝子のレコードが他を寄せ付けず圧勝し、わずかに健闘したといえるのは青山ミチのみだった。

しかしぼくはひいき目だったのかもしれないが、コニー・フランシスよりも弘田三枝子のほうが迫力があり、小学生ながらにすごい歌手だと思った。

それを証明するかのように大滝詠一が、デビューしてすぐの頃に弘田三枝子のテレビ番組で台本を書いていた作家の小林信彦氏との対談において、当時の印象をこんなふうに語り合っていた。

大滝:女性歌手でああいうパンチで出てきたのは、彼女が初めてだろうと。
小林:そうなんです。ぼくはすごいショックを受けましてね。彼女がワーッと出て来たのが昭和37年。戦争が終わって17年経っていたわけです。それでうっかり「戦後の17年は無駄じゃなかった」ってつぶやいたら、安倍寧という音楽評論家が新聞に書いちゃった(笑)。戦後の17年は弘田三枝子のためにかって(笑)。
大滝:すごい、すごい(笑)。
小林:引き揚げで苦しんだりとか、いろんな人がいるわけでしょう。それなのになんだとか言われましたけどね。
大滝:でも、弘田三枝子はすごかったですよね。
小林:いや、もう、ほんとにすごかった。その頃の弘田三枝子は大好きです。

1960年8月にフジテレビの番組『ヒット・キット・ショー』のオーディションで、 弘田三枝子はスタンダード・ソングの「オーバー・ザ・レインボー」で合格した。

本番でもスタンダード・ソングの「アレキサンダー・ラグタイム・バンド」を歌って、テレビ局のディレクターに見出されてプロになっていく。

その後、東芝レコードでダニー飯田とパラダイスキングや坂本 九を担当していた草野浩二ディレクターのもとで、1962年11月に 「子供ぢゃないの/悲しき片想い」でデビューした。

これはイギリスの若手シンガーだったヘレン・シャピロと一緒に、洋楽と邦楽を売り出すという、東芝レコード側の作戦に乗ったものである。

弘田三枝子はこのデビュー曲から順調に軌道に乗ったが、当時から物おじしない度胸の良さには定評があった。

当時の音楽雑誌「ミュージックライフ」には、こんなエピソードが掲載されたことがあった。

ある日、あるテレビ局で、ある先輩女性歌手が、たくさんの人たちの前でミコを呼びつけ、
「この頃、ミコちゃん、生意気だわよ」
とばかり、ポンポコお説教をはじめました。それを最後まで黙ってきき終えたミコは、
「お話、もうそれだけ」
「そうよ。もういいから、あっちへ行きなさい」
そのとたん、ミコがすかさず言ったものです。
「あなた、おちめね……」
いや、そのタイミングのよさといい、ケロッとした無邪気な顔といい、ただもうミゴトの一言につきたものでした。

そんなふうに天衣無縫で、前途洋洋に見えていた弘田三枝子に陰りが出てきたのは、年齢的な成長と同時に起こった環境の変化によるものだった。

1962年にデビュー当時から所属していた事務所から独立することになり、自らのマネジメント・オフィスを開設したのだ。

しかしその頃からカヴァーポップスのブームは少しずつ翳りを見せてきて、1963年に坂本 九の「上を向いて歩こう」が日本語のまま世界中で大ヒットしたことから、オリジナル曲を創り出す方向へとゆるやかに移行していった。

そうした流れの中で成功を収めたのが「ふりむかないで」、「恋のバカンス」、「ウナセラディ東京」をヒットさせたザ・ピーナツである。

そして歌謡曲寄りになった園まりの「何も云わないで」「逢いたくて逢いたくて」、伊東ゆかりの「小指の思い出」「恋のしずく」は、大手プロダクションの渡辺プロダクションの所属歌手たちによるヒット曲だった。

しかしながらポップスに強かった東芝から1964年に日本コロムビアに移籍したこともあり、弘田三枝子はそれ以降、ヒット曲から遠ざかっていしまう。

1964年には日本人として初めて、「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」にも出演し、本格的な大人のジャズ・シンガーを目指した。

その後も熱心なファンの間では名曲と評価された「渚のうわさ」(作曲:筒美京平 作詞:橋本 淳)が、1967年にヒットしたものの後が続かず、次第に地味な存在になってしまった。

そこから文字どおりの鮮やかな変身を遂げて、「人形の家」でカムバックを遂げたのは1969年のことだ。

あまりの変貌に世間やマスコミは驚き、弘田三枝子はたちまち時の人になった。

しかしそこでは大滝詠一や小林信彦が驚嘆した天才歌手のきらめきが、残念ながらすでに失われていたのである。

大滝:天才のきらめきというのは一瞬だと言いますけれども。
小林:そうなんです。歌をうたわなかったらどうしようもないという存在……坂本九は歌をうたわなくとも、きっと、感じのいい青年として多分どの世界でもやっていけたと思いますが、弘田三枝子はもうぐちゃぐちゃで天才という気がしましたね。
大滝:うーん。
小林:その後の弘田三枝子さんというのは、ぼくらが知ってる弘田三枝子と違うような気がするんですよね。
大滝:違います、それはまったく。
小林:別人っていう感じが、ぼくはなまじ知っていただけにあるわけです。
大滝:ぼくにもありますよ。
小林:テレビで見ても、なんか違う人と入れ代っちゃっているんじゃないかってね。

それでも弘田三枝子は最後まで現役を全うして歌い続けたが、2020年7月20日に自宅で倒れて病院に搬送されて、心不全のため翌日に亡くなった。享年73。

ぼくは21世紀になってから日本歌手協会のコンサートで、彼女のライブを2度ほど体験しているが、声はおとろえても真剣なステージに感心させられた。 

心からご冥福をお祈りいたします。

(注)本文の中で引用した小林信彦氏と大滝詠一氏の対談は、「新譜ジャーナル別冊ゴー!ゴー!ナイアガラ~日本ポップス史 (自由国民社 1984)からの引用です。

弘田三枝子の楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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