佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 151

Column

「お富さん」と「変なオジさん」によって知ることができた、志村けんさんの音楽センスについて考えた

「お富さん」と「変なオジさん」によって知ることができた、志村けんさんの音楽センスについて考えた
「志村けんさんは、とてもシャイで優しい、カッコいい人でした」

そう語ってくれたのはTBSラジオで6月21日の夜にオンエアされた、1時間のスペシャル番組でDJを担当した小泉今日子だった。
番組の終盤にはTBSラジオで放送されていた志村けんさんの番組「夜の虫」をよく聴いていたという話も出てきた。

それをきっかけにして志村さんとの間で起こった、知られざるエピソードも紹介された。

「私も本当に若い頃にたくさんお世話になりまして、『8時だョ!全員集合』もそうですけど『ドリフ大爆笑』とかも、準レギュラーみたいにして呼んでいただいて。

私が下手ですぐにコント中も本気で笑っちゃったりしたんですけど、志村さんはそこがいいと言って、たくさん相手役に選んでいただきました」

『8時だョ!全員集合』の時には目覚まし時計を持ってきて、「朝の目覚ましの音を録音してくれ」と言われたことがあったという。

「一時、多分、志村さんは私の声で起きてた時期があると思いますよ。何て言ったか忘れちゃったけど(笑)」

ところで昔のお笑い芸人は軽演劇の出身者が多かったので、当たり前のように歌舞伎や新派、新劇のパロディーなどを盛んに舞台に取り上げていた。
「白波五人男」「瞼の母」「名月赤城山」「お富さん」などは、オリジナルの芝居を観たことがなくても、たいがいの子供は名場面について何となくでも知っていた。

今のお笑いはそうした文化的継承を分断されているので、若い人はお芝居の素養がまったくないという状態にある。
残念なことだがそればかりは世代による格差や、時代の変化によるものだから嘆いても始まらない。

そんななかで志村けんが石野陽子との“就寝コント”で、往年の大ヒット曲だった「お富さん」のレコードを使ったことで、オリジナルを唄った春日八郎にスポットが当たるという現象を引きおこしたことがある。

春日八郎が唄った「お富さん」 が空前のヒット曲になったのは、1954年の夏から翌年の夏にかけてのことで、異常ともいえる現象だったという。

歌舞伎の演目「与話情浮名横櫛(よわなさけ うきなの よこぐし)」に登場する、“お富”と“与三郎”を題材にした狂言は、男女の不倫をめぐる話であった。

したがって良識ある大人たちからは不道徳だとして、当初は露骨に眉をひそめられたらしい。

しかもやくざが妾をゆする場面まで出てくるのだから、子どもには聴かせたくない歌でもあっただろう。

それにもかかわらず、年端もいかない幼い子どもたちを巻き込んで、爆発的なヒット曲になったのは、ブギウギ調の明るいリズムとサウンド、そして春日の美声による生真面目な歌い方のおかげだった。

誰も予想していなかった「お富さん」ブームは夏の盆踊り大会などを通して、突然変異のように日本中に飛び火して、1年以上もの期間にわたって猛威を振るった。

それが幼い子どもたちにまで大受けしたのは、歌詞の意味がわからなくても語呂がよくて歯切れがいい、江戸風の話し言葉が気持ちよかったからだろう。

また沖縄音楽の流れを組む土着的なダンスミュージックのカチャーシーと、うまくマッチしていたことも、ブームに大きく寄与していた。

それを端正な佇まいの二枚目歌手だった春日が背筋を伸ばして、生真面目な態度を崩さずに唄ったことで、大人からも好感を持たれたのである。

「お富さん」
作詞:山崎正 作曲:渡久地政信

粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだ筈だよ お富さん
生きていたとは お釈迦様でも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー 玄冶店(げんやだな)

アイドル歌手だった石野陽子と二人で組んだ爆笑コントによる「お富さん」を通して、『志村けんのだいじょうぶだぁ』の記憶が刻み込まれたという世代が、確かに存在していたのである。

春日は1989年の大晦日に第40回NHK紅白歌合戦の第1部にて、11年ぶり21回目の紅白出演を「お富さん」で果たしている。

そこに志村けんのギャグが貢献していたことは言うまでもない。

お笑いの要素に加えて抜群の音楽センスがあったからこそ、『だいじょうぶだぁ』の視聴者となった子どもたちの間で、ギャグをひきたたせる面白い歌として記憶に残ったのだのだろう。

自分が子どもだった頃の記憶をたどって生み出した音楽を使ったギャグが、同じように次世代の子どもたちを巻き込んで、元ネタになった歌を後世にまで広めていったのことになる。

そんな音楽の底力がいかんなく発揮されたのが、同じく沖縄生まれのロックとして誕生した喜納昌吉の「ハイサイおじさん」だった。

すでに1970年代から口コミを通じてスタンダード曲になりつつあった「ハイサイおじさん」は、1969年に沖縄民謡集のレコードの一曲として日の目を見た楽曲である。

沖縄民謡とアメリカのロックンロールが結びついて、エレキバンドによる自作自演で演奏されたことで、辺境と見なされていた復帰前の沖縄に実に画期的な歌が生まれたのだ。

ウチナーグチ(沖縄方言)の歌詞は耳で聴いていても、まったくといってもいいくらいに意味不明だった。

しかし地元で評判になって1972年にシングル盤が発売されると、ローカル・ヒットに結びついて沖縄列島の全体にまで広まった。

ちょうど沖縄を旅行中だったロックミュージシャンの久保田麻琴が、西表島で観光用の牛車の中にいたとき、BGMとして流れてきた民謡の中に入っていた「ハイサイおじさん」を、たまたま聴いたのが事の始まりとなった。

久保田は友人の細野晴臣に宛てた絵葉書に、「興奮を抑えきれない音楽と出会った」と書いて送った。

細野は「ハイサイおじさん」を持って訪ねてきた久保田麻琴と一緒にレコードを聴いたが、一聴しただけで何かゾクゾクしてくるものを感じた。

こんな音楽が日本にもあるということ知って、最高に楽しい気分になったというのである。

当時の日本では録れない、ジャマイカのレコーディングのような音でした。
スカの古いレコードみたいな音がしてたんです。
音もそれに匹敵するインパクトがあったんで、びっくりした。

「ハイサイおじさん」は当時から細野がよく聴いていたニューオーリンズの音楽、たとえばドクター・ジョンの「ガンボ(Gumbo)」などと、なんの違和感もなく繋がったのである。

そこからニューオーリンズにとってのジャマイカのように、日本における沖縄という構図が細野には見えてきた。

そこで久保田と二人で「次はチャンプルーだ!」と盛り上がった。

まだ沖縄料理を一口も食べたことがないまま、細野は面白い音楽はいずれも異文化の混合であり、料理で言えば“ごった煮”、すなわち、沖縄語の“チャンプルー”だとわかった。

「ハイサイおじさん」は久保田麻琴と夕焼け楽団によって、『ハワイ・チャンプルー』(1975)というアルバムのなかでカヴァーされて本土にも紹介された。

そこからマニアックな音楽ファンに知られるようになったのは、伝播力の強さがあったからだろうし、これをプロデュースした細野の影響力も大きかった。

語呂が良く口コミで自然に広まったのは、「お富さん」にも通じるエピソードである。

そしてレコード関係者に注目されたことから、本土復帰後の1977年には『喜納昌吉とチャンプルーズ』が発売された。

それとどうつながっていたのか、ぼくにはよくわからないのだが、ドリフターズの志村けんが評判になったギャグのなかで、「変なおじさん」という替え歌を唄ったのは、1980年代に入ってからのことだと思われる。

そこから「変なおじさん」はたくさんの子どもたちに広まって、後世にまで唄われ続けることになった。

なお「ハイサイおじさん」のオリジナル歌詞には、喜納昌吉自身の実在する知人との体験が織り込まれていた。

沖縄戦の影響で精神を病んでしまった妻が、幼い娘の首を切断するという悲惨な事件が起こった。

そこから誕生した沖縄戦の悲劇にまでつながる内容が、実はこの歌の背景には横たわっていたのである。

その事件の後でモデルとなった家の夫が、酒におぼれる日々に陥って旧知だった喜納家にいつもやって来て、酒をせびっていた。  

だから歌詞はしょうもない酔っぱらいのおじさんと、彼をからかう童(ワラバ)、つまり子どもの頃の喜納昌吉との、軽口による言葉の応酬に終始している。

そこには悲惨な現実を笑い飛ばすしかない、沖縄の庶民の生き方が込められていたとも言えるだろう。

高校生の時に一人で日本武道館に行ってビートルズの日本公演を見ていたロック好きの志村けんは、そうしたシリアスさもしっかり受けとめたうえで、替え歌にしてギャグとして笑いを取っていたに違いない。

そのような音楽としてのエッセンスの活かし方が、シャイな表現者の真骨頂だったように思える。

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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