佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 150

Column

藤 圭子の69回目の誕生日だった7月5日は、24時間生ライブ配信に挑んだ西田あいのおかげで忘れられない日になった

藤 圭子の69回目の誕生日だった7月5日は、24時間生ライブ配信に挑んだ西田あいのおかげで忘れられない日になった

1週間前にアレンジャーの大村雅朗のドキュメンタリー番組『風の譜~福岡が生んだ伝説の編曲家 大村雅朗~』を観て思うところを本コラムに書いたあとで、貴重な役目を果たしてくれた梶田昌史・田淵浩久共著による『大村雅朗の軌跡1951-1997』(DU BOOKS 2017年)をもう一度、最後のページの作品一覧から読み直してみることにした。

福岡から上京した直後で無名だった頃に大村がどんな仕事をしていたのか、それを確かめたくなったからである。
全曲の資料は以前から読みたいと思っていたが、印刷された文字がぼくには小さすぎて、老眼鏡をかけても判別することが困難だったので、なかばあきらめていた。
しかしipadで写真を撮って拡大すれば、細かな文字も確認できるのではないかと思って試してみた。

そうやって調べ始めてまもなく、大村雅朗が最初に手がけた著名なアーティストが引退してアメリカに旅立つ前の藤 圭子だったことがわかり、にわかには信じられないような偶然に驚かされた。
1978年の4月25日に発売されたシングル盤「銀座流れ唄」と、B面の「猫と女」はともに大村雅朗の編曲だったのである。
ソングライターはその当時、山口百恵の快進撃を支えていた宇崎竜童&阿木燿子のコンビだった。

そんなレコードが出ていたことをぼくは知らずに40年も過ごしていたのだが、今はあっさりYouTubeで聴くことが可能になっていた。
そして演歌についてまわる特有のえぐみがない大村のサウンドは、そのまま現在に通用する品のいい編曲であった。

高校3年生の時に地元のラジオ局から流れてきた「新宿の女」を聴いて、その歌声に大きな衝撃を受けたのは1969年の10月のことだ。
その時に18歳になっていた藤 圭子は9月25日にデビューしたばかりの新人歌手で、宣伝のために仙台の放送局を訪れてラジオに出演していた。

“演歌の星を背負った宿命の少女!!”というキャッチフレーズで売り出されていた藤 圭子は、学生や社会人の若者たちが世の中に対して「NOー!」というメッセージを突きつけていた全共闘運動の時代に、あまりにも古色蒼然とした打ち出し方だったと思う。

その年には歌謡曲の世界でも由紀さおりの「夜明けのスキャット」や、ちあきなおみの「雨に濡れた慕情」、カルメンマキの「ときには母のない子のように」といったユニークなヒット曲が誕生していた。

演歌といわれる分野においても内山田洋とクールファイブが、卓越した歌唱力を持つ前川清を擁して、ロック色の強いムードコーラスで一世を風靡して頂点に立った。
(詳しくは本コラムの第94回 「野外フェスに出演して注目を集めた前川清、その音楽における原点を振り返る」を参照)

野外フェスに出演して注目を集めた前川清、その音楽における原点を振り返る

野外フェスに出演して注目を集めた前川清、その音楽における原点を振り返る

2019.05.21

そうした状況のなかにあって藤 圭子だけが時代錯誤的な売り出し方に見えたので、「かわいそうに、、、」と同情する気持ちが湧いた。
しかし歌詞がよく理解できない内容だったのにもかかわらず、暗くて重い歌声が強く印象に残ったのも事実だった。

それから6年後にデビューしたシンガーソングライターの中島みゆきが、1989年に出版したエッセイ集の『ジャパニーズ・スマイル』(新潮社刊)の中で、「新宿の女」の歌詞について20年にわたって大きな誤解をしていたということを、以下のように明らかにしていた。

私が男になれたなら
私は女を捨てないわ
ネオン暮らしの蝶々には
やさしい言葉がしみたのよ
バカだな バカだな だまされちゃって
夜が冷たい 新宿の女

 藤圭子という、いたいけな少女っぽい歌い手さんのドスのきいた声を聞いた。北海道出身の人だとかいう記事を読んだのでなんだか親しみを感じて耳を傾けたものだった。しかし最近になって私は、自分がこの詞の意味を取り違えていたらしい、ということにやっと気づいたんである。
 正しくは「私が男になれたなら」、その場合「男」になった「私」は、まぁ、どこかの、そこいらの、誰でもいいや、とにかく他人である誰か「女」を「捨てないわ」…と、そんなふうな意味であるらしい。
 しかし、あたしはてっきり、
「私が男になれたなら」…、その場合、「男」になった「私」は、男になったにもかかわらず自分がもと「女」だった頃の女である部分をも「捨てないわ」…と。
(初出は雑誌「クロワッサン」1989年6月10日号)

こんな解釈でこの歌を聴いていたらしいのだ。

ちなみにこの二人とぼくは、同じ学年の同期である。

ところで藤 圭子がデビューから一か月ほどで音楽シーンに浮上するきっかけをつかんだのは、「新宿25時間立体キャンペーン」が成功した結果だった。
マネージャーを兼ねていた作詞家の石坂まさは、販売促進のために新宿の商店街から飲屋街を25時間、休むことなくぶっ続けで藤 圭子がギターを弾いて流して回るという、苛酷ともいえるキャンペーンを企画した。

もちろん目的は、何とかして目立つためだった。

RCAレコードのディレクターだった榎本 襄が、実現に至った背景をこう述べていた。

どういうキャンペーンをやろうかという話になった時、彼女の喉の強さはみんな知っていましたし、ギターでなんでも弾いてどこでも歌えますので、あの企画を考え、ビクターレコード本体の宣伝部が手伝ってくれて、マスコミもテレビ、ラジオ、業界紙、通信紙に集まってもらい、大々的にやる事ができました。なので決してゲリラ的にやったのではなく、一軒一軒お願いをしました。普通はキャバレーで、いきなりビッグバンドの前で歌わせてなんてくれませんから、事前に彼女を連れていって、バンマス、メンバー全員に挨拶をさせ「飛び入り的な感じでやりますので、よろしくお願いします」とお願いをしました。25時間というのは、少女が25時間も歌い続けるというインパクトを狙ってのものです。

1969年11月8日、落語家の林家三平が神主代行を務めて、新聞社20紙、週刊誌16誌、ラジオ13番組、テレビ7番組を集めて『新宿の女』キャンペーンの出陣式が、西向天神社で行なわれた。

マスコミのなかでも企画の段階から石坂に密着して、大きく取り上げてくれたのがスポーツニッポン文化部の小西良太郎記者だった。

それについても榎本ディレクターは、その後の反響をこのように語っていた。

あの記事が導火線になったと思っています。何日か後に、突然バックオーダーが三桁きて、それが続いて4桁になって、という感じで全国から反応があって、みんなで祝杯をあげました。テレビ、新聞、ラジオ他にどんどん彼女の露出が増え、波及効果がすごかったです。露出があると、そのビジュアルがものをいうというか、興味を持ってもらえました。

なお榎本ディレクターは本コラムの143回で取り上げた南正人のアルバム『回帰線』(1971年)で、ドラムの林立夫とベースの細野晴臣のすごさをぼくに教えてくれた人でもある。

ぼくは半世紀以上も前のエポックメーキングな宣伝キャンペーンを思い出して、作詞家兼マネージャーだった石坂まさをと藤 圭子による二人三脚のことを考えていた。

今ならば考えも及ばない企画であった。

そんな時に歌謡曲の歌手としてデビューした西田あいが7月4日の夜に、自身が開設したユーチューブの「ニシアイチャンネル」で、10周年記念の生配信ライブを行うことが発表になった。

2010年のデビューから今年で10周年を迎えるにあたって、ホールで予定していた記念コンサートが新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、開催が不可能になったことから急きょ、自ら企画してライブ配信を準備したのだという。

「コロナで仕事がなくなって、歌う場所もなくなり、気がおかしくなりそうだった」ので、せっかく発信できる場があるのなら、「そこでできることをやろうよ」ということが決まった。
タイトルは「あいは無休で歌う~100曲チャレンジ~」で、24時間の生放送で100曲を歌うという、これまた無謀と思える企画であった。

おりしも彼女の故郷は九州の鹿児島県だったので、集中豪雨による被害が心配されていたところだった。
それでも前を向いて企画を進めたのは、「大雨で大変なタイミング。ライブ配信で、マイナスな情報を少しでも忘れられるようなひとときになれば」という思いがあったからだという。

最初にニシアイチャンネルで24時間生配信やろうと決めたときに、自分に何かできることあるかと言ってくれたのは、同じ事務所で純烈を担当する山本浩光マネージャーだった。

そして純烈のメンバーが参加することになり、ニシアイチャンネルの枠を飛び越えていろんな企画が進んで、とどこおりなく開催することができるようになった。

ぼくも途中で休みながらではあったが、7月4日から5日にかけて最後まで見届けることができた。

そしてそれが藤圭子の誕生日とも重なったことに、なんとも不思議なつながりを感じていた。

歌手として表の顔や姿を出すだけでなく、スタッフの一人としての立場で裏方としても、できることはみんなで力を合わせて実現に向けていく姿は、普通の芸能人ならば表に見せないところである。
しかし、そこをあえて見せていくことで、誰もやっていない領域に入っていった度胸の良さに感心させられた。

もちろん長丁場なので食事も必要だし、疲れてしまって途中で見ていないところも多々あったけれど、配信という形での表現に希望を感じることができたように思う。
それはぼく個人にとっても大きな収穫だった。

翌日の夜になってフィニッシュが近づくと、最後まで参加した方たちがチャットでたくさんの意見を述べていた。そうした言葉がどんなに励みになっていることかは、映像やトークによって可視化されて伝わってきた。

そのためにデビューしたときからマネージャーだった湯川江梨の変わらぬ情熱に、視聴者から称賛の声が数多くあがった。

10年間ぶつかり合いながら築いてきたあいちゃんと、湯川さんの絆の深さにジーンと来た。
「西田あい」は ふたりが育てたもんやなって。

50年の歳月を経て未曽有の危機にさらされている音楽シーンの渦中にあって、そうした行動を支える熱量の源は人間の「心」、すなわち「情」なのだということがよくわかった。

ところで25時間をかけて100曲も唄ったなかで、西田あいというシンガーの底力をぼくがもっとも感じたのは、99曲目の「糸」だった。
言うまでもなく中島みゆきのカヴァー曲だが、疲れ切って無防備といってもいい状態で唄ったことで、聴いていて不思議な浮遊感と感動を覚えたのだ。

楽曲に命を注ぐのも、歌から命の鼓動を受けとめるのも、一人ひとりの人間の「心」だということをあらためて肝に銘じた。

西田あいYouTubeチャンネル
ニシアイチャンネル

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち

著者:佐藤剛
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ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。

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