STAGE SIDE STORY〜エンタメライター 片桐ユウのきまぐれ手帖〜  vol. 5

Column

vol.5 “オリジナル”って?

vol.5 “オリジナル”って?

演劇、舞台をメインに執筆しているライターの片桐ユウが、芝居やエンターテインメント全般に思うことを綴っていくコラム。作品は人に様々な感情をもたらすもの。その理由やルーツを訪ねて飛び回ってみたり、気になった場所を覗き込んでみたり、時には深堀りしてみたら、さらに新しい気づきがあるかもしれない。“エンタメ”とのコミュニケーションで生まれるものを、なるべく優しく大切に。

今号は美術系のニュースに驚いた出来事から、“オリジナル”という言葉について。


マダム・タッソーではなく悪魔の芸術の方

「おお、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの?」
──『ロミオとジュリエット』第二幕第二場(ジュリエット)

図書館、美術館、博物館、映画館、旅館、蝋人形の館。
自分には「館」と名の付く場所が性に合っているようで、いずれに居る時もとにかく居心地が良い。その中で過ごす時間はまるで森林浴でもしているかのように、胸に濃い空気が送り込まれている気分になる。

小説も肖像画も化石も、整えられた場所で己の物語を抱えてじっと鎮座している。限られた時間の中でもそれらと同じ空間にいると、たまらなく懐かしいような、不思議な気持ちに包まれることがある。どれも特別で、格別で、その貴重さに目眩がしてくるようだ。

だから、6月下旬に見かけたネットニュースには背筋が凍った。

「素人が絵画修復にまたしても失敗」という記事だった。開いたページには3枚の画像が貼られており、内2枚は「失敗した修復後の絵画」、そして1枚は「元の絵画」となっている。思わず悲鳴を上げたのは、その絵画がムリーリョによる『無原罪の御宿り』であったからだ。

17世紀バロック期を代表するスペインの画家、バルトロメ・エステバン・ペレス・ムリーリョ。聖母マリアが純潔であるとする教義を題材にした『無原罪の御宿り』を、ムリーリョは何枚も描いている。その内の何点かは美術展で来日もしており、私も実物を目にしたことがあった。マリアの無垢な佇まいが印象的で、画家の卓越した技術と慈しみ深い眼差しが注ぎ込まれた美しい絵画だ。

先に肝心なことを言うと、そのネットニュースは個人の美術収集家が所持していた“複製画”の話であった。

とある収集家が家具修復業者に複製画の修復を依頼したところ、随分ひどい有様になってしまい、復元を求められた再度の修復でも悪化の一途を辿ったという。
その記事は、文化遺産保護修復学校や修復専門家協会の関係者が、スキルを持たない人間が芸術品の修復に携わることの危険性を嘆き、修復保存の重要性を訴えて締め括られていた。

件の収集家と修復業者がどのようなやり取りを交わして、その絵画を託すに至ったのかは知る術がないが、台無しになってしまった“複製画”に関しては気の毒極まりない。ネットで話題になることの多い「失敗作」だが、こうした被害がネタ扱いで終わらず、美術修復の環境が見直されることを願うばかりだ。

ただ、あの可憐な『無原罪の御宿り』の“オリジナル”がこの世界から失われなかったことに、正直胸を撫で下ろした気持ちもあった。
“原物”からしか読み取れない「歴史」や「想い」もあるだろう。芸術作品が可能な限り“元”の状態で保存され、過去から未来へと受け渡されていくのは大切なことだと思う。

実際に起こる確率は非常に少ないだろうが、もしも塗り替えられた方の絵画だけが残り続けたとしたら、後の世の人たちにとっては“修復後”の作品が“オリジナル”だと誤解される可能性だってある。

作者の意図を正しく汲み取るためにも、“オリジナル”が伝えられていくことは必須。
戯曲だって、例えばシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』。「おお、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの?」という台詞の最後に、イタズラ書きで「(笑)」と足された台本だけが伝わっていたとしたら、稀代の喜劇として語られていたかもしれないではないか。

と、考えたことで思ったのだが、「演劇」の“オリジナル”ってなんだろう。

「演劇」……共同体の結束を深めるためもあったと思われる原始的な歌や踊りが、少しずつ信仰に結び付いて儀式となり、やがて神殿で上演される「劇」となった。そこに写実的な動き=「演技」が含まれていったことが“始まり”とされる。

……めちゃくちゃざっくりまとめた上記の説はギリシア悲劇に関する資料に拠るものだが、ルーツをひとつ探るだけでこの移り変わり方だ。

おそらく人類が生じたところ全てで発生したであろう「演劇」の“始まり”は大体似たようなもので、それぞれの場所や文化によって幾つもの様式が生み出され、多彩に派生していき、今に続いているのだと思う。
これは一体どこを“元祖=オリジナル”とすれば良いのか。あまりに壮大な議題のため、一個人には到底定義付け出来そうにない。

ただ分かるのは、「演劇」は絶えず変化してきた分野だということだ。
その理由も数え切れない程あるように思うが、大きな要因のひとつとしては、“再現”が不可能であることが挙げられるのではないだろうか。

「舞台は生き物」と呼ばれるように、ステージは日々のコンディションによって変わる。気温や役者、観客のテンション。ロングラン公演であれば俳優とクリエイター陣の経験値も徐々に変化していく。
それに加えて時の流れや心理を考えると、例え同じ演目を全く同じ演出で、“オリジナル”と同じキャストとスタッフで、そして同じ観客が同じ座席番号に座っている状態まで整えようとも厳密には“オリジナル”と同じものは生まれないといえる。

だからこそ人は足繁く劇場へ通い、日々の違いを見逃さずにいたいと願うのかもしれない。「演劇」に魅入られた観客の多くは、“変化”を楽しむことこそが「演劇」の醍醐味ということにとっくに気づいているのだろう。
そして変化が「成長」や「パワーアップ」という前向きな言葉で捉えられるものであれば、大抵は“オリジナル”であることが固執の対象となるケースは少ないように思う。

もちろん“伝統”を帯びている古典芸能や劇団、最も“始まり”に近い“原型”や“原点”を探り、保存しようとする活動の尊さを否定しているわけではない。それらは美術修復の話に似た意義があるものだと思っている。同時に古典芸能や劇団関係も、貪欲に新作公演を生み出し続けている。

合わせて美術やその他の芸術に関しても、常に新たな息吹が生まれている分野であることも念の為に記しておく。私個人が、歴史的価値があるとされる美術品や出土品といった「過去」寄りの“オリジナル”に興味が偏っているだけなので、きっと「近代」にも「現代」にも、胸を掴まれるような作品が存在することだろう。

演劇、舞台芸術、古典芸能、絵画、様々なエンタメ。そのどれもが「道具」や「技術」の発達があれば意欲的に取り込み、失われていく「素材」や「環境」にめげることなく代わりを見つけ出す。そうやって芸術の全ては活動を続けていくのだろう。
DNAのどこかに積み重ねられた“オリジナル”を受け継ぎつつも、絶えず進化の道を探し続ける。

そう考えていると、本当に“芸術”は“生きること”そのものだなと思う。

「館」で出会う作品の数々は“生きた証”だから、懐かしい気持ちになるのだろうか……と、独り合点した。
まあ大いに勝手な思い込みだとは思うが、今は映画館で間もなく公開される『プラド美術館 驚異のコレクション』には足を運び、『無原罪の御宿り』のマリアに再会する時を楽しみにしたい。
なんだかPR広告のような〆になってしまったが、非・関係者の独り言である。

文 / 片桐ユウ

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