佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 149

Column

ヤマハが設立した「ネム音楽院」の一期生だった大村雅朗の作品に新たな光を当てた単行本とドキュメンタリー番組の功績

ヤマハが設立した「ネム音楽院」の一期生だった大村雅朗の作品に新たな光を当てた単行本とドキュメンタリー番組の功績

初めて大村雅朗の名前を知ったのは1980年の春先で、まもなく世に出るというシンガー・ソングライターのデビュー曲「アンジェリーナ」の試聴用テープを聴いたときのことだ。

その新人の名前は佐野元春、イントロからワンコーラスを聴いただけで、「あ、これで日本の音楽が変わる!」と思ったのを覚えている。
それほどの衝撃を受けたのは斬新な発想でロックと日本語の関係に、新しいスタイルが確立されていたからだった。
しかも都会的でクールなタッチのサウンドは、華奢さと繊細さをそなえた新しいロックの誕生を思わせた。

それは日本の音楽史に残る画期的な発明だとさえ思えたし、実は天才的なアレンジャーが誕生していたことにも気づかされた。

ところが「アンジェリーナ」は当時、まったくといっていいほどヒットしなかった。
これだけの素晴らしい作品があっさり見過ごされてしまったことに、ぼくは納得がいかない思いを引きずることになった。

これといったヒット曲が出ないままだった佐野元春がブレイクするのは、ライブの評判などで盛り上がった1982年の後半から翌年にかけのことである。

2018年に刊行された『イントロの法則80’s~沢田研二から大滝詠一まで』(文藝春秋)のなかで、著者のスージー鈴木は「アンジェリーナ」がニューウェーブ版の『明日なき暴走』だと、肯定的な意見を述べていた。

『明日なき暴走』と言えば、もちろんブルース・スプリングスティーンの75年のヒット曲『Born to Run』の邦題である。
と書くと、「大村雅朗が洋楽のヒット曲を借用した」という、低い次元の話に聞こえるかもしれないが、それはまったく本意ではない。むしろ「ニューウェーブ」と『明日なき暴走』を掛け合わせるというダイナミックな発想と、それを不可分なく実現したアレンジは、大村雅朗という人の圧倒的な才能を証明するものだと思っている。

これを読んでぼくはようやく、長年の胸のつかえが収まった気がした。

ところで「ヤマハ音楽教室」と名付けた子供向けの音楽普及事業は、日本楽器(YAMAHA)の社長だった川上源一の指導のもとで始まったが、1954年の設立からわずか10年で全国の教室数が約5,000会場にまで増加し、生徒数も日本全国で約20万人と急成長を遂げた。

また東京オリンピックが開催された1964年には、レジャー産業への参入に合わせてヤマハは鳥羽国際ホテルをオープンさせた。それを皮切りに三重県の志摩半島に、「合歓の郷(ねむのさと)」と名付けたリゾート地を開発した。

その中にプロの音楽家や先生から理論と実践を学ぶことができるミュージック・キャンプを設立し、レコーディングスタジオや屋内ホール、野外ホールなどが完成したのは1969年のことである。

そこに専門の教育機関を設立したのは、自前ですぐれたポピュラー音楽の指導者を育てるためだった。1969年12月3日の日本経済新聞ではこんなニュースが報じられていた。

指導者の養成に「ネム音楽院」設立 ヤマハ音楽振興会

財団法人ヤマハ音楽振興会(川上源一理事長)は、三重県志摩の「合歓(ねむ)の郷」に、来月四月までに「ネム音楽院」を設立すると発表した。
同音楽院は、ピアノ、エレクトーンの指導者養成をめざす「キーボード・コース」=十人=と管楽器、ギターの教師養成を目的とした「バンド・コース」=四十人=の二部門に分かれ、資格は学歴、性別を問わないが年齢二十五歳まで、養成期間は全寮制で一年。授業料十五万円、入学金、寮費等を含めると年間五十万円かかる。
講師は中村八大、服部正、渡辺貞夫、大橋秀丸、前田憲男の各氏ら。
卒業後はヤマハ音楽能力検定を受けたあと、合格者は同特約店の指導者となることができる。

ポピュラー音楽全般の事業を担当していた柳井淳一専務理事は、ヤマハが目指すところについて、「ピアノやエレクトーン、管楽器のいずれかに熟達したうえ、専門外のギターやドラムなどにも指導ができ、しかもクラシックにもアドバイスのできる“全能型”の指導者を育てたい」と語っていた。

この「ネム音楽院」で学んだ生徒たちは全国の特約店に勤務するようになり、指導者としてそれぞれのエリアでアマチュアを育てていった。
そうしたなかから生まれてきた音楽家の代表が、1973年の小坂明子や1975年の中島みゆきという、ポピュラーソングコンテスト(ポプコン)出身のシンガー・ソングライターである。

佐野元春も1978年のポプコンでは、優秀曲賞に選ばれていた。
そして指導者から編曲家になって八神純子の「みずいろの雨」で、その年に最初のヒット曲を放ったのが大村雅朗だった。

1950年5月8日に福岡市に生まれた大村は、地元の小学校に入学するとピアノ教室に通うようになった。中学に入ってからは吹奏楽部に入部し、アルトサックスを吹いて活躍した。

そして福岡大学附属大濠高校へ進学してからも、吹奏楽コンクールの福岡支部予選で3年連続優勝している。また大村が部長になった3年生のときには、全国大会でも5位に入賞する好成績を残した。

高校卒業後の1970年4月、大村はネム音楽院の一期生としてバンドコースに入学した。生徒数はバンドコースが27人、キーボード・コースが7人、少数精鋭にふさわしいハードなカリキュラムが用意されていた。

朝から晩までびっしりと音楽を学ぶだけでなく、翌日に提出する宿題もあったので、生徒たちの多くは明け方まで課題のアレンジ譜面を書いていたという。

楽器の設備も環境も万全だったネム音楽院では、優秀な講師が常駐して指導にあたっていた。

しかもヤマハ・ミュージック・キャンプでは年間を通じて、一流のプロによる「合歓ポピュラーフェスティバル」や、「合歓ジャズイン」などのイベントが開催された。したがって生徒たちは中村八大や渡辺貞夫といった、世界的な音楽家の演奏や編曲を間近で体験することができた。

音楽理論のテストで常に満点を叩き出す優等生だった大村は、バンドコースで1年間みっちり学んだ後、70年の春にあらためてキーボード・コースに入り直している。

ここからさらに勉強を重ねていったのは、プロの編曲家をめざしていたからであろう。

ネム音楽院を1972年の3月に卒業して地元の福岡に帰った大村は、ヤマハ音楽振興会の九州支部に入社し、母校の大濠高の吹奏楽部や西南大学の吹奏楽団などで指導者として働いた。

その一方ではヤマハが力を入れていたポプコンの応募曲を、譜面からアレンジする仕事を始めたことで、編曲のセンスと才能が認められていった。
1976年の第12回ポプコンでは、九州地区代表の西田恭平&ホワイトハウスの「鐘」を編曲し、グランプリに選ばれたことでその名が東京にまで知れわたった。

そしていよいよ1977年になって満を持して上京すると、翌年に八神純子の「みずいろの雨」がヒットし、一躍スポットライトを浴びたのである。
当時のレコード会社や原盤制作会社のディレクターたちは、新しい才能の登場を待ち望んでいた。チャート誌に掲載されるシングル曲のヒットと、編曲家の動向にきわめて敏感になっていたのだ。

それはニューミュージックの台頭とともに、全体でサウンド志向が強まったことで、新鮮なアレンジがヒット曲に欠かせなくなってきたからである。

ヤマハの制作部にいたディレクターの細川知嗣が、こんな証言を残している。

70年代から80年代、ヤマハはポプコンを通じて音楽業界で一時代を築きました。多くのヒット曲が渋谷にあったエピキュラス・スタジオから生まれました。ディレクターズルーム(制作室)もそこにあり、ディレクターはスタジオ・ミュージシャンやアレンジャーの情報を日々、仲間内で共有していたので、自然と全体の音楽制作力がレベルアップしていったのでしょうね。

アレンジャーも萩田光雄さんや船山基紀さん、そして瀬尾一三さんなど、若手中堅の才能ある皆さんが、ポプコンのアマチュアリズムに賛同して良い仕事をしてくれていました。大村さんも福岡から上京しそのブレーンとして加わり、やがてシティ系は彼の専売特許といった感じになってきましたね。

上京から半年ほどでトップ・アレンジャーの肩書を手にした大村は、「パープル・タウン」(八神純子)、「謝肉祭」(山口百恵)、「モニカ」(吉川晃司)、「早春物語」(原田知世)、「そして僕は途方に暮れる」(大沢誉志幸)、「My Revolution」(渡辺美里)など、実に多くのヒット曲に関わっていった。

またデビュー曲の「青い珊瑚礁」から多くの楽曲を連続して手がけたことで、松田聖子の「育ての親」ともいわれる存在になった。
なかでも昭和のスタンダード曲になった傑作が「SWEET MEMORIES」で、これは自分で作曲を手がけている。

作詞家の松本隆は「デモテープを聴いたら完全にジャズなんだよね。これ聖子に歌えるのかな?って。でも、彼女が一皮むけて大人のシンガーになるいい変わり目だよね。あれがあったからいま松田聖子は歌い続けることができる」と述べていた。

最初にサントリービールのコマーシャルとして、テレビから流れてきた英語の歌を耳にしたとき、ぼくは誰かがアメリカのスタンダード曲をカヴァーしたのだと勘違いしてしまった。
それが松田聖子のオリジナルで、しかも作曲者がシングル盤の編曲を手がけていた大村雅朗だとわかったときの驚きは大きかった。

売れなかった「アンジェリーナ」から早くも2年が過ぎていたが、1983年の暮れに「SWEET MEMORIES」は日本レコード大賞の編曲賞を受賞した。しかしぼくはこの時に、作曲賞とのダブル受賞であるべきだと思わずにいられなかった。

それほどの名曲だと思えたのだし、50年後にも歌い継がれるスタンダード曲になると予想できた。

だがヒット曲を求められることの負担が大きい割に、編曲の仕事をほんとうに理解できる人は少なかった。だから現場の作業は常にオーバーワークの連続で、苛酷だったと大村が述懐している。

最初アレンジャーになった頃は、ハードもまだ8チャンネルとか16チャンネルの時代で、しばらくは何もわからないまま過ごしていました。自分が何をやりたいかが少しずつわかってきたのは10年くらい前からです その間には音楽的でないものがヒットしたりそれを受け入れる文化の薄っぺらさなどにガッカリしたり、またそんな日本が嫌になったりしました。

そうした状況が一向に改善されない日本を離れて、大村は1988年からアメリカに拠点を移している。

アメリカに住んでわかったことは逆に僕はやはり日本人だなということでした。アメリカに入り込めば入り込むほど僕の日本人意識が出てきてしまう。それは仕方のないことだと思うし、生まれ持ったものは絶対に変えようがない。反対に日本人の知らなかった面もわかって、やはり日本で仕事がしたいなと思いました。

そういう経過があってアレンジャーよりも、音楽全体を見る プロデューサーに主軸を移すことにした。しかし自分のレーベルを始めてまもなく、大村はスタジオで倒れて体調が徐々に悪化していった。

肺不全のために急逝したのは、1997年6月29日のことだった。享年46。

最良のパートナーを失ったショックについて、松本が単行本の『大村雅朗の軌跡 1951-1997』(2017年 DU BOOKS)のなかで、こんなふうに語っていた言葉が印象に残っている。

僕が聖子さんをやりだした時に、すでに大村君は聖子さんをやっていたので、出会いというか、彼はもうそこにいたんです。僕はレコーディングにはあんまり顔出さなかったんだけど、彼が曲を書くときはその打ち合わせで会うってことが多かったかな 僕は彼の作るメロディが好きでね彼の作るメロディに詞をはめるのはすごく好きだった。

大村のアレンジについて、松本はこうも述べていた。

今思えばほんとうに作りやすかったなって思う。僕と大村君がいれば世界ができちゃうっていう、ほんとうにそういう感じ。だから彼が亡くなって一番ダメージを受けたのは僕だったと思う。サウンド面でのパートナーを失ったから、やる気がなくなっちゃった。だから90年代、僕は引っ込んでるんです。

『大村雅朗の軌跡 1951-1997』をもとにしたドキュメンタリーが、地元だった福岡にある制作会社の手で作品化されたのは、2019年のことである。

FBS福岡放送開局50周年記念特番として『風の譜~福岡が生んだ伝説の編曲家 大村雅朗~』は、福岡・佐賀だけの限定でしかオンエアされなかったにもかかわらず、全国的に大きな反響を呼んだ。

ぼくは知人の好意でそれをDVDにしたものを見せていただいたが、すみずみにまで愛情と敬意が込められた作品で、制作者たちの熱い思いを強く感じさせられた。

そしてつい先ごろ、命日の前日となる6月28日にBS日テレで、待望の全国放送が実現したのである。

ふたたび大村雅朗が注目されているのは、残された作品に力があったことはもちろんだが、妥協しない純粋な生き方への共感も大きかったと思う。

『記録と記憶で読み解くJ-POPヒット列伝』の著者で、T2U音楽研究所を主宰する臼井孝のツイッターからは、オンエアの翌日にこんなコメントが流れた。

6/28のBS日テレ/風の譜〜福岡が生んだ伝説の編曲家 大村雅朗〜 のOA効果で、配信の歌謡曲部門の1位と3位に大村先生作品が急上昇!「桜の園」の上昇は前年秋の本放送以来。BS効果としてもかなり反響大。 福岡FBS局の丁寧な制作が多くの視聴者の心に響いた証拠。

歌も音楽も生きている。そして作品を覚えている人がいる限り、音楽家もまた、いつまでも生き続けることができる。

そのことを教えてくれた梶田昌史・田渕浩久による労作の『大村雅朗の軌跡 1951-1997』に、改めて感謝の意を表したい。

『大村雅朗の軌跡 1951-1997』

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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