佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 147

Column

服部克久さんが山下達郎について、「世間話をしない人で、どこか父の良一に通じるものを感じる」と語っていました

服部克久さんが山下達郎について、「世間話をしない人で、どこか父の良一に通じるものを感じる」と語っていました

シンガー・ソングライターの山下達郎が6月14日(日)に放送されたTOKYO FMのレギュラー番組『サンデー・ソングブック』の中で、11日に83歳でお亡くなりになった服部克久さんについて、「日本の最高峰の編曲技術を持った方」だったと語っていたのを聴いていた。

私は、33年ぐらいお世話になっております。
たくさん仕事させていただきまして、たくさん助けていただきました。
(竹内)まりやの場合はさらに長くて、40年のお付き合いになります。
本当に、人間的にも音楽的にも、いろんなことを教えていただきました。

1993年のアルバム『シーズンズ・グリーティングス』では、毎日のようにディスカッションをする中で、スタンダード曲やクリスマスソングをオーケストラ・アレンジにして歌うため、がっぷり四つで取り組んでもらったという。
またとりわけ気に入った作品だったという「Forever Mine」については、ロンドン録音時のエピソードをまじえながら話した後で、日をあらためて服部克久さんの特集番組を行いたいとも述べた。

そうした話の最後になって、父である偉大な音楽家の服部良一氏との比較で、こんな言葉を語ったことが印象に残った。

もうあのストリングスが聴けないのかと思うと、感慨無量のものがございます。
でも、お父様の服部良一さんは75歳で曲がお書きになれなくなって引退されたんですけれども、服部さんは直前までお仕事をされていた。インスピレーションと集中力が途絶えなかった……と。その点では、お幸せな人生だったと思います。

服部克久さんが2017年に上梓した『音楽畑にようこそ』(日本経済新聞社)という著書には、戦前から日本を代表する作曲家になっていた父が、中国の上海で敗戦を迎えて収容所に入れられた後に、年の瀬が近づいた頃になって不意に自宅に帰ってきたときの驚きが、その前の流れから詳しく書いてあった。

東京の吉祥寺にあった2階建てのハイカラな洋館は、幸いなことに空襲を免れて無事だった。
富山県に疎開していた母と子どもたちは、秋になって混乱がいくらか収まったところで、東京に戻って赤い屋根と白い壁の自宅で暮らすようになったという。

そんな年の瀬に何の前触れもなく、上海の陸軍報道部の文化工作班にいた父が、中国から復員してきたのである。
この時の克久さんは小学生で10歳だった。

四五年の暮れ、家族そろって二階に集まり、談笑していたときのことだった。「坊や、坊や」。下で誰かの声がする。おかしいな。空耳かな。「坊や、坊や」。間違いない。
「パパだ。パパが帰ってきた」。僕は真っ先に階段を駆け下りた。みんながドドドドッと転がるようについてくる。玄関に出るとボロボロの兵隊さんが立っていた。戦闘帽をかぶり、リュックを背負い、開襟シャツにゲートル姿。紛れもなく父だった。
「パパ」。へなへなと座り込もうとする父に飛びついた。母や兄弟たちが次々と抱きついてくる。思い返すと感傷的になる場面なのだが、当時はひたすらびっくりしたというのが正直なところだ。

同じその日の出来事を、父も自伝『ぼくの音楽人生』(中央文芸社 1993)のなかで、記憶をたどって描いていた。
中国からの引き揚げ船は12月4日に上海を出港し、鹿児島県の加治木港に8日に到着した。屋根のない貨物列車に乗って東京の品川駅に着いたのは、翌日の夕方のことであった。

市電に乗り替えて銀座の尾張町まで出てから、有楽町駅に向かったときに見えたのは、空襲も接収もまぬがれた駅前の日劇だった。

すでに戦後初めての公演と銘打って、『ハイライト・ショー』が上演中であった。
出演者として灰田勝彦、轟夕起子、笠置シヅ子、岸井明といった懐かしい名前が並んでいた。

うれしかった。すぐにでも楽屋を訪ねて、なつかしいかつての仲間たちと再会したかったが、家族の安否が何よりも気づかわれて、そのまま吉祥寺に直行することにした。それでも、敗戦の東京に、早くも大衆娯楽の復活の兆しを目にすることができて、ぼくは心を励まされる思いであった。
吉祥寺向かう省線電車の中で、隣のおばあさんが、
「あんた、どこから復員したの」
と声をかけ、握り飯を一個くれた。
(ああ、日本人の人情もまだすたれてないぞ)
と、思わずうれし涙で押しいただいた。

吉祥寺に着いて徒歩で自宅に向かうと、幸運にも無事だった洋館には、明かりがポツリと灯っていた。
そして玄関に立つと中から、話し声が聞こえてきたという。

ドアを開けて、
「坊や、坊や」
と呼んだら、話し声がやんだ。真っ先に長男の克久が飛び出してきて、
「あ、パパだ、パパが帰ってきたよ」
と叫んだ。
その声がスーッと遠のく感じで、気を失うようにへたへたと玄関先に座り込んでしまった。

この文章を読んで驚かされるのは、服部家では戦時中から子供たちが、父親のことをパパと呼んでいたことである。
洋風でハイカラな生活様式を通していたのは、それが音楽で生きることに、どこかで直結していたからであろう。

戦地から戻った服部良一氏が最初に日劇で手がけた初仕事は、1946年1月1日の新春から始まった、エノケン一座における音楽だった。

克久さんは日劇がホームグラウンドのようだったということを、子どもの頃の体験から以下のように書いている。

学校が終わると有楽町に出て、銀座並木通りの風月堂二階にあった「服部良一音楽事務所」まで歩く。
笠置シヅ子さんや父の妹の服部富子らが所属していた事務所には、母に連れられて妹や弟たちが先に来ていて、はしゃぎながら待っているのが常だった。

父は事務所を拠点に内幸町のコロムビアや有楽町の日劇などを行き来していた。日劇でショーがある日は父や笠置さんたちは早くから楽屋入りしている。僕らも事務所で少し遊んでから日劇に向かうのだった。 僕ら兄弟にとっては、日劇の楽屋は平和な遊び場だった。
エノケンことに榎本健一さん、灰田勝彦さん、坊屋三郎さん、益田喜頓さん、山茶花究さんといったスターたちが、「坊や、坊や」と可愛がってくれる。順番にあいさつして回ると、「おお。来たな」とお菓子がもらえるから、オヤツにも困らなかった。
僕らはだいたい父の楽屋でごろごろしていた。

服部良一氏はその後 、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」 、灰田勝彦の「東京の屋根の下 」、藤山一郎と奈良光江の「青い山脈」、高峰秀子の「銀座カンカン娘」などのヒット曲を出して、戦後にふさわしい明るいポップスで、ひとつの時代を築いてたくさんの歌を後世に残した。

1956年に高校を卒業した克久さんはパリの名門だった国立高等音楽院に留学し、そこで3年間の充実した音楽教育を学んで帰国した。
ちょうど日本ではテレビが家庭に普及しつつあった時期だったので、プロの音楽家として仕事を始めた段階では、テレビ番組で数多くの音楽を手がけることになった。

なかでも1964年に始まったCX系の『ミュージックフェア』には草創期より関わり、前田憲男と二人で長きにわたって音楽監修と編曲を担当している。

50年以上も続く長寿番組になったのは、制作や音響スタッフたちの情熱の賜物であるだろうが、それを支えていたのは世界に通用するクオリティの音楽であった。

その当時から克久さんは日本だけで通用するガラパゴス的な音楽ではなく、「国際的に違和感なく聴かれるインターナショナルポップスが目標だ」と公言していた。
交友のあったミシェル・ルグランやポール・モーリアをはじめとして、インターナショナルで活躍するフランスの音楽家が、いつも羅針盤の役目をはたしてくれたのだという。

ところで克久さんは自分の父が、実は山下達郎とも似ているところがあると、著書の中でさりげなく触れていた。

いつのことだったか、達郎さん夫妻と京都のお茶屋さんに行く機会があった。まだ昼で少し時間がある。まりやさんは「お寺を回りたい」と言うのに、達郎さんは「レコード店を回ってきます」と言い残し、いそいそと出かけていった。彼は音楽に対して常にストイックで、音楽以外のことは頭にないかのように思える。
達郎さんは世間話をしない人で、どこか父の良一に通じるものを感じる。親父は一切、世間話ができない人だった。

克久さんにしかわからない感覚なのだろうとは思うが、音楽のことしか考えていない生真面目な生き方は、言われてみると「なるほど」と得心がいくものだった。
二人ともいろいろな音楽を聴いて研究し、自分のものにすることに貪欲で、いつもたゆまぬ努力を重ねていったのだ。

そしてそれはそのまま、克久さんにも当てはまってくるのではないかということに、ぼくは初めて気づかされたのである。

服部克久さんの手がけた楽曲がこれからも長く、聴かれていくことを願って、哀悼の意を表します。

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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