オトナに響くストーリーマンガ  vol. 5

Review

コロナ禍、気候変動……「人間以外の存在」との付き合い方にヒントをくれるマンガ作品

コロナ禍、気候変動……「人間以外の存在」との付き合い方にヒントをくれるマンガ作品

新型コロナウイルスの猛威に加え、降雪と夏日の到来がひと月内に起こるなど「気候変動」の影響も如実に感じられる昨今。人間と、人間社会の外側にある現象や生態との関係を、マンガはどのように描いているのだろうか。危機の時代を読書への誘惑として捉え直すきっかけをくれる作品たちをご紹介。

文 / 永田 希


極小から極大へ 『惑わない星』の世界

©石川雅之/講談社

『惑わない星』(著:石川雅之)

石川雅之『惑わない星』の最新巻が刊行された。極少の細菌と語り合える能力を持つ大学生の農業大学での活躍を描いた『もやしもん』の作者が、今度は天体という極大の物体が人間のような姿をとって人類と会話する物語を描いている。

『惑わない星』の舞台になるのは主に未来の地球。科学技術が発展した結果、地球環境は人間がそれまでの生活を続けるのが困難になるほどに破壊され、未来の人類はシェルターの中にひきこもるようになる。

自閉した人類は、かつて栄華を極めたテクノロジーを忘却していた。本作の主人公たちはそんな自閉したシェルターの「外」に出て、宇宙に向けて手紙を送るというややロマンティックな業務についている。ある日、主人公たちのもとに「地球」と「月」の化身が現れる。しかも地球は衰弱していて、他の天体の助けを求めていた。

主人公たちは、地球の呼びかけに応えて徐々に集結していく太陽系の天体と交流するなかで、『もやしもん』の細菌が描かれるときにマスコット的に描かれたようなキャラクターの姿をした「月」に宇宙の物理学の講義を受け、忘れつつあった人類の知的達成を取り戻していく。

『惑わない星』の魅力は、宇宙物理学をマンガで学べるということや、作者の卓越した画力で存分に描かれるフェティッシュな人体表現に留まらない。さいきん話題にされることが増えた、地球温暖化やそれにともなう水位上昇など、人類の所業が引き起こす天体規模の変化についての、「それ以後」の人類からの眼差しをシミュレートしているところが、ほかの作品にはあまり見られない特徴になっている。

もちろん『惑わない星』だけがそうだとは言わない。たとえば、ジブリで世界的なアニメ監督として知られている宮崎 駿のコミック作品『風の谷のナウシカ』は、巨神兵に代表される強力な兵器による戦争で荒廃しきった世界を舞台にしていたし、ポストアポカリプスと呼ばれるジャンルにもなっているくらいだ。

ここで『ナウシカ』の名前を挙げているのは偶然ではない。『ナウシカ』では、主人公のナウシカが、世界戦争で汚染された「腐海」の地下に清浄な世界を発見する。『ナウシカ』では、巨大なダンゴムシのような「王蟲」が有名で、そのほかの巨大な虫類が印象に残りがちだが、実は世界の大半が「腐海」の「瘴気」に覆われている。登場人物の多くは、「腐海」では特殊なマスクを着用する必要があり、マスクなしでは体内に「胞子」が入り込み、重篤状態に陥ってしまうのだ。

ポストアポカリプスと「胞子」が遍在する世界という意味で『ナウシカ』はじつは、『惑わない星』と『もやしもん』を足したような作品なのだ。

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『宝石の国』における鉱物と海棲生物の融合

©市川春子/講談社

『宝石の国』(著:市川春子)

『ナウシカ』では「王蟲」をはじめとする蟲類とナウシカの交流が描かれていたけれど、人類と虫の交流を描く作品も実は少なくない。『ナウシカ』の参照元のひとつでもある日本の古典文学「虫めづる姫君」以来の伝統なのかもしれない。

同テーマでは小川幸辰『エンブリヲ』などの名作もあるが、ここでは短編集『虫と歌』の表題作を描いた市川春子の名を挙げておきたい。市川は、もうひとつの短編集『25時のバカンス』の表題作で深海の生物に「選ばれ」て、人間の身体を失う女性を登場させた。マイナーな生物と身体を分け合うというモチーフは、作者の初の長編にして現在も連載中の作品『宝石の国』でも反復されている。

『宝石の国』もポストアポカリプス的な作品なのだが、それについてはここでは詳述しない。興味のある向きはぜひ作品にあたってみてほしい。

主人公・フォスフォフィライト(フォス)をはじめとして鉱石の名前と特性をもった登場キャラクターたちは、月から襲来する「月人」との闘いを繰り広げているのだが、その過程で身体を損傷したフォスは、クラゲのような海棲生物と身体をシェアすることになる。ある種の海棲生物が、軟体動物のようなヌメヌメした部位だけではなく、貝類のような硬い殻をもっていることを、血の通った肉体と硬質な骨を備えた人間の身体になぞらえているのかもしれない。

鉱石の身体をもつフォスたちは、『惑わない星』の天体たちのように、普通は人間のようには描かれない存在だ。それは『もやしもん』で細菌が擬人化とまでは言わずとも、人間のキャラクターと対話可能な存在として描かれていたことにも通じる。

マンガという表現方法は、『惑わない星』や『もやしもん』、『宝石の国』のように、人間ではないものを人間のように「ことばを話せる」存在として描くことができる。もちろん、自然界の神羅万象に人格を与え、人間と対話可能な存在として、東西に古来からある神話は語られてきた。

19世紀に活躍した幻想文学の小説家ホフマンの『黄金の壺』という作品には、鉱石のフォスフォフィライトを思わせる名前の霊界の主・フォスフォルスが登場する。『黄金の壺』は、学生と炎の精霊の恋愛が軸に描かれるのだが、この神話と学問の融合はロマン主義文学らしい構図になっている。

現代マンガの父祖とも神とも言われている手塚治虫が、その名前にも込めているとおり生物学的な知的背景を持っていることや文学的な素養をたぶんに持ち合わせていたことを考えてみても、『宝石の国』や『惑わない星』をホフマンの子孫として読むことにおそらく無理はない。

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擬人化の逆の状態を描く『拡散』

©小田ひで次/講談社

『拡散』(著:小田ひで次)

『宝石の国』を連載している『アフタヌーン』誌にかつて掲載され、6年もかけて完結した小田ひで次『拡散』。『宝石の国』『惑わない星』『もやしもん』が、生物ではないものを人間のように描いた作品だとすれば、『拡散』は人間を大気のような分散したものとして描くという逆のアプローチをしている。

『拡散』の主人公である東部克彦は、自分の意志とは無関係に「拡散」してしまうという現象に悩んでいる。ふつう、人間は生まれてから死ぬまで、基本的には脊髄を中心にした骨格と、内臓と肉、血液が通る血管、それらを皮膚が覆う「身体」をもっている。東部は、そのような、脊髄を軸にして皮膚に覆われているひとつの身体、そしてそのなかにあるひとつの意識、というものを保つことができなくなる。それが「拡散」だ。

士郎正宗の『攻殻機動隊』では、インターネットとサイボーグ技術によって似たような現象が描かれているが、『拡散』ではどのような理由で「拡散」が起こるのかは説明されない。

『もやしもん』では、細菌がひとつひとつの菌の個体に顔が与えられて声を発していたが、『拡散』で拡散してしまったときの東部は、ふつうの人間の身体の限界を超えて遍在してしまう。ふつう、人間は身体が存在している場所に存在していて、ほかの場所には存在していない。この当たり前のことが、『拡散』の東部にとっては当たり前ではないのだ。それは地球の上であるはずのシェルターの片隅に、病に伏せる姿で現出する『惑わない星』の「地球」のようなものなのかもしれない。

なんの説明もなしに「拡散」現象を描く『拡散』は、合理的に読もうとすると荒唐無稽に思われるかもしれない。しかし現代の読者にとっての、SNSとスマートフォンで離れた場所にいても意見を交換できるリアリティは、じつはこれに近いような気がしないだろうか。

鉱物や海棲生物、惑星や細菌を擬人化する『宝石の国』『惑わない星』『もやしもん』のような作品と、その反対に人間を、空気やネットワークされたコミュニケーション空間のように描く『拡散』。

これらの作品は、マンガという表現手段が、人間以外の存在を人間のように身近に感じさせ、また逆に人間そのものを日常的な意味の身近さから解き放つ可能性を秘めているのかもしれない。

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