佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 142

Column

リトル・リチャード~ロック界のレジェンドたちにとってのレジェンド、偉大なる先駆者を悼んで

リトル・リチャード~ロック界のレジェンドたちにとってのレジェンド、偉大なる先駆者を悼んで

体の全体から絞り出すようなエネルギッシュなシャウトの力強さで、ロックンロールの創始者として飛び抜けた存在感を誇ったシンガーが、2020年5月9日にテネシー州のナッシュビルの自宅で亡くなった。享年87。

リトル・リチャードが最初に脚光を浴びた「トゥッティ・フルッティ」は、最初に「a-wop-bop-a-loo-bop」という、意味不明の掛け声から始まっている。

1955年の11月に発売になったレコードは、R&Bチャートで2位、ポップチャートでも22位のヒットになった。

しかし人種差別のために黒人のR&Bは当時、白人のラジオ局で流れることがなかった。

そこですかさずカバーしてヒットさせたのが、いかにも良家の好青年といった白人のパット・ブーンだった。

レコードは2月に最高12位まで上昇し、リチャードよりもヒットしたのだ。

だがロックンロール激しさや金切声のシャウトによる快感、さらにはその奥にひそむ危険な香りは、きれいに取り除かれていた。

続いてヒットした「のっぽのサリー」の場合は、リチャードのオリジナルがR&Bチャートでナンバーワンになり、ポップチャートでも13位に食い込んだ。

黒人のためにつくられたR&Bのレコードを、白人の子どもたちが買うようになったのは、リチャードが最初だったと言われる。

リチャードが作った初期のロックンロールには、それだけの強い影響力が備わっていたのである。

そのほかにも「リップ・イット・アップ 」、「ルシール 」、「ジェニ・ジェニ」、「グッド・ゴリー・ミス・モリー」といったヒットが短期間のうちに誕生してきた。

しかしリチャードは1958年に歌手を廃業し、神学校に入って牧師の道を歩み始めている。

ちょうどそのタイミングで日本ではロカビリーブームが爆発し、リチャードの作品がこぞって日本語でカバーされた。

とはいえそれらはエルヴィス・プレスリーやパット・ブーンといった、白人がカバーした曲を経由する形で、日本語に変換されたようにも思えた。

だから本来の凄まじいまでのエネルギーは薄められて、リチャードの毒々しさが日本にまでは、なかなか伝わらなかったのだ。

そのなかでは1960年代のカバーブームの時代になってから、鈴木やすしがテレビの音楽番組で「ジェニ・ジェニ」を唄っていたのが印象的だった。

というのは子どもながらにも、どこかしら暴力的な怖さを感じて、あまり近づかないほうがいいと思ったからである。

コメディアンで司会者だった鈴木やすしに、瞬間的にリチャードの本質が乗り移ったのかもしれない。

日本でもよく知られたヒット曲は、平尾昌晃がカバーした「ルシール」である。

これは1970年代になってからも山口百恵がライブで取り上げるなど、オールディーズとして定着していった。

なお「ルシール」や「のっぽのサリー」については、尾藤イサオや内田裕也が1960年代以降にレパートリーにしていたことも、かろうじてぼくの記憶に残っている。

その二人も時々、大人が持っている怖さを垣間見せることがあった。

しかしアメリカで引退状態だったために、日本ではリトル・リチャードにスポットが当たることはなかった。

当時の音楽シーンに影響力を持っていた月刊「ミュージックライフ」に、リトル・リチャードのことが取り上げられたのは1959年の初頭だった。

コールマンひげを生やし、ウェイブした髪のなかなかハンサムな黒人歌手、名前の示すように、いかにも小柄ですが、一度、ステージに立つや、体中から、ダイナモ的なショーマンシップを発散し、聴衆を魅了しきる男なのです。その点、ファッツ・ドミノとは好対照ですね。

ただし、この「リトル・リチャーズ物語」という記事は、名前からして「リチャーズ」と間違っていた。

身長が181センチだったのに、”いかにも小柄”と書いてあるところなど、情報が限られていたことから間違いや誤解も見受けられる。

そこで綴られているストーリーには、子ども時代の苦労がこんなふうに描かれていた。

幸の事に生まれながらにして、エンターテイナーの素質を身に付けていたリチャーズは、わずか7歳にして初舞台を踏み、また町の中で歌を歌いながら、人々から金を恵んでもらったこともあるのです。

しかし自分がゲイであることに気づいて、そのことで父親に疎まれて白人の家庭に養子に出された経験もあるという。

したがって独立独歩で生きていくために音楽の道に進み始めたのは、神さまに導かれたともいえる必然の流れだった。

14歳の時、土地の教会で初めてピアノ弾くようになりましたが、周囲の人々から歌の天分を認められまもなく、教会合唱団のリード歌手となりました。別に正規の音楽的訓練は受けておりませんが、生来の才能はぐんぐんと伸びて行ったのです。
此頃の宗教的雰囲気は、後の大成功を得る大きな原動力になったことは間違いありません。

その後のリチャードは薬を売り歩くメディスン・ショーの一行に加わって、人を集めて音楽を歌ったりピアノの演奏しながら、南部の各地を巡業して歩いた。

やがてアトランタ市で開かれたタレント・ショーに出演し、コンテストで優勝したことで、居合わせたディスクジョッキーに認められて、RCAレコードからデビューすることになった。

だがそこですぐに成功したわけではなく、初期のRCAビクターやピーコック・レコードでは、なかなか期待に応える成果が得られないままに終わった。

それでも自分で作ったデモテープを録音して売り込んでいたときに、ロスアンゼルスの黒人レーベルだったスペシャルティ・レコードに認められて、「トゥッティ・フルッティ」を1955年に3テイクだけ録音してレコーディングを完了した。

この曲が黒人のR&Bチャートで2位になり、ポップ・チャートでも22位になったことで、黒人と白人の間にあった音楽の壁が壊れていく。

長かった下積み時代に鍛え上げたエネルギッシュなシャウトによる歌唱法と、激しいアクションでピアノを弾く姿が話題になって、草創期のロックンロールが発展していく段階で、リチャードはエルヴィス・プレスリーとともに決定的な影響を与えたのである。

人種差別とゲイに対する性的な差別が激しい時代だったのに、自らが性的マイノリティであることを公表し、派手なメイクをしてきわどい歌詞の楽曲を唄ったリチャードは、異端児として本領を発揮していった。

しかし人気の絶頂期だった1958年に突如として引退を発表し、アラバマ州のオークウッド大学に入学して神学を修めてから、しばらくは牧師になっている。

それからは罪深い悪魔の音楽としてロックンロールから離れて、ゴスペルを歌う生活をしていた。

ふたたびロックンロールの歌手として復帰したのは1962年のことだが、その復帰コンサートのツアーでまわった西ドイツのハンブルグで、前座を務めたのが無名時代のビートルズだった。

ここで特筆すべきことはアマチュア時代からビートルズにカバーされていた「のっぽのサリー」が、1964年以降の音楽ファンなら誰もが知るロックンロールのスタンダード曲に成長していったことだろう。

日本でもシングルレコードが発売されて有名になり、1966年の日本武道館における来日公演では、ドリフターズがこれをカバーしている。

そして1980年代に入ってCDの時代が来ると、リチャードの初期の作品が1枚にまとめられて、たくさんの若者に支持されることになったのだ。

ところでリチャードの訃報がSNSを通して流れると、ポール・マッカートニーが追悼のメッセージをツイッターやインスタグラムで公にした。

「ぼくはリトル・リチャードと彼のスタイルに多くの影響を受けています。彼はそれをよく知っていました。ぼくに教えてくれたこと、そしてぼくを友達にしてくれた親切に感謝します。さようならリチャード、「a-wop-bop-a-loo-bop」 – ポール・マッカートニー」

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'From 'Tutti Frutti' to 'Long Tall Sally' to 'Good Golly, Miss Molly' to 'Lucille', Little Richard came screaming into my life when I was a teenager. I owe a lot of what I do to Little Richard and his style; and he knew it. He would say, "I taught Paul everything he knows". I had to admit he was right. In the early days of The Beatles we played with Richard in Hamburg and got to know him. He would let us hang out in his dressing room and we were witness to his pre-show rituals, with his head under a towel over a bowl of steaming hot water he would suddenly lift his head up to the mirror and say, "I can’t help it cos I’m so beautiful". And he was. A great man with a lovely sense of humour and someone who will be missed by the rock and roll community and many more. I thank him for all he taught me and the kindness he showed by letting me be his friend. Goodbye Richard and a-wop-bop-a-loo-bop.' – Paul McCartney #LittleRichard #PaulMcCartney

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1963年にイギリスのツアーを一緒にまわったローリング・ストーンズのミック・ジャガーも、誠意が伝わってくる追悼の言葉をツイッターに投稿していた。

「彼とツアーを回った時、毎晩その動きを見て、観客を巻き込んで楽しませる方法を学んだ。ぼくにアドバイスをくれる、常に寛大な人だった。彼のポピュラー・ミュージックへの貢献は大きなものだよ」

ロック界のレジェンドとなっていくポールやミックが若かりし頃に、多大な影響を与えたリチャードは、そこから半世紀にわたってロックンロールの創始者として音楽活動を全うした。

あらためてここに追悼の意を表明し、今後も様々な形で歌い継がれていくことを切望して、ペンを置くことにしたい。

リトル・リチャードの楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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