佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 135

Column

仲間たちの力を借りて完成したアルバム『モップスと16人の仲間たち』(その4)

仲間たちの力を借りて完成したアルバム『モップスと16人の仲間たち』(その4)

東京に出てプロになる道を探っていた吉田拓郎は、仕切り直しのため地元の広島に戻ってきた1967年3月、地元の音楽仲間たちとロックバンドのザ・ダウンタウンズを結成した。

大学生と会社員からなるこのバンドは毎月2回、第1第2日曜日の夜に広島カワイ楽器店の5Fホールで、定期的に無料コンサートを開催して、人気実力ともに広島ではトップだと目されるようになった。

彼らは第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストの中国・四国大会でも、バンド部門で優勝している。

その頃の代表曲に「好きになったよ女の娘」という、吉田拓郎が作詞作曲したラブソングがあった。

それから5年近い月日が過ぎた1972年になって、吉田拓郎はモップスの鈴木ヒロミツからの電話で、アルバム用に楽曲を作ってほしいと頼まれた。

依頼を引き受けた吉田拓郎が思い浮かべたのは、「好きになったよ女の娘」だった。

ダウンタウンズが1969年に自然に消滅した後、1970年に上京してから唄っていなかったのは、ありきたりのラブソングだったからだという。

だがメロディーだけならば時代に関係なく、そのまま通用するだろうと思ったらしい。

その時に吉田拓郎はモップスのために、まったく新たな歌詞を書き下ろすことにした。

鈴木ヒロミツが特徴あるしゃがれ声で歌うのであれば、大人のロックバンドにふさわしい歌詞にする必要があるとの判断であった。

そこで“荒くれた人生を生きてきて、それに疲れている男の述懐”というふうに歌詞を書き換えた。

こうした流れから「たどりついたらいつも雨ふり」は、モップスの楽曲として出来上がったのである。

「たどりついたらいつも雨ふり」
作詞・作曲:吉田拓郎 編曲:モップス

疲れ果てていることは
誰にもかくせはしないだろう
ところがオイラは何のために
こんなに疲れてしまったのか
今日という日が そんなにも大きな
一日とは思わないが
それでもやっぱり 考えてしまう
ああ このけだるさは何だ

いつかはどこかへ 落ち着こうと
心の置き場をさがすだけ
たどり着いたら いつも雨降り
そんなことのくり返し
やっとこれでオイラの旅も
終わったのかと思ったら
いつものことではあるけれど
ああ ここもやっぱり どしゃ降りさ

心の中に 傘をさして
裸足で歩いてる 自分が見える

人の言葉が 右の耳から左の耳へと通りすぎる
それ程オイラの頭の中はカラッポに なっちまってる
今日は何故かおだやかで
知らん顔してる 自分が見える

鈴木ヒロミツの歌声は心が晴れない気分を押し殺したような、どことなく不穏な気配を漂わせながら始まる。

したがって全体から伝わってくる空気感はそのまま、デビュー曲の「朝まで待てない」とも共通してくる。

おそらく吉田拓郎がパプリック・イメージとしてとらえていたモップスの世界は、阿久悠が「朝まで待てない」の歌詞で描いた“孤独の叫び″であり、言うに言われぬ“切迫感″であったのだろう。

そこには鈴木ヒロミツのパワフルなヴォーカルと星勝の強烈なファズ・ギター、タイトで重いドラムとベースによるサウンドが絶対に欠かせないものだった。

そういう意味で彼らはサウンドに関して、デビュー時から解散するまで、見事なまでに一貫していたといえる。

レコーディングが終わった「たどり着いたらいつも雨降り」の音源を渡されたとき、吉田拓郎はイントロを聴いただけで「やったな!」と喜んだという。

イメージした通りのロック・サウンドが聴こえてきたので、ご機嫌になったのだろう。

これはリスナーとして聴いていた吉田拓郎に、デビュー曲の「朝まで待てない」がしっかり届いていたことを伝えるエピソードのように思える。

自分がDJを務めていたラジオ番組の中では、もともと愛着があった楽曲だったとも語っていた。

だからすぐに自分でもカバーすることにして、7月21日に発売されたアルバム『元気です』に収録したのである。

アルバム『モップスと16人の仲間たち』と、そこからシングルカットされた「たどりついたらいつも雨ふり」は、どちらも7月5日に発売された。

それがアルバム『元気です』に入っていることがわかったことで、吉田拓郎のヴァージョンにもリクエストのはがきが数多く寄せられた。

そしてあたかもモップスと吉田拓郎による競作のように、ラジオや有線から流れて広まっていったのである。

こうしてバンドにとっての代表曲をものにしたモップスは、それまでとは異なるソフトロックにも挑戦している。

星勝のソロ名義による「フーズ・フー・イン・マイ・ライフタイム~人生の香り/(同英語版)」は11月20日にシングルが発売された。

また勝新太郎主演の東宝映画『御用牙』 の主題歌として、ロック仕立ての「牙のテーマ」を依頼されたことから、原作者の小池一夫の作詞で星勝が作・編曲・ヴォーカルに取り組み、モップスの名義で12月20日に発売したのだ。

その頃には鈴木ヒロミツが次の場所として、俳優に転向しつつあったことからみると、それらはメンバーの将来を考えて行われた挑戦だった。

モップスはおそらくこんなふうにして、バンドとしての終焉を迎える準備に入ったのだろう。

1974年の4月のコンサートを最後に解散する道を選んだことについて、リーダーの鈴木ヒロミツは遺書のつもりで語り下ろした著書の中で、正直にホンネを明かしていた。

ロックバンドのリーダーとしての冷静さと、表現者としての潔さが印象的だった。

ギターの星勝なんかは、当時からやっぱり才能がありましたもん。僕とは持っているものが違いました。だから、解散した後も井上陽水のヒットアルバム『氷の世界』とか、すごい作品に次々と関わってね。日本を代表するアレンジャーの一人として素晴らしい活躍をしている。
(鈴木)幹治もプロデューサーとして力を発揮し始めていました。実際に、その後、浜田省吾君やスピッツを成功させました。
そういう力がある仲間を近くで見ることができたからでしょうね。未練を残すことなく僕は音楽から離れることができました。後ろ髪を引かれるような思いをすることなく、次の場所へ行くことができた。ミュージシャンとしては、僕はモップスをやるのが精一杯でした。

(鈴木ヒロミツ著「余命三ヵ月のラブレター」幻冬舎)

鈴木ヒロミツが亡くなったのは、2007年の3月14日であった。享年60。

なお作詞家としてのデビュー作となった「朝まで待てない」を書いた阿久悠は、訃報を知らされたときには自分自身もまた、癌との闘病中で入院していた。

そのために通夜にも葬儀にも出席できなかったことが悔いになったとして、「昭和と歌謡曲と日本人」(河出書房新社)のなかに、こんな追悼の一文を書き残している。

その昔を知らない人のためにぼくは断言する。鈴木ヒロミツはロック歌手だったのだ。

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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