佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 133

Column

一柳慧と武満徹が企画した現代音楽とクラシックのイベントで、小澤征爾が指揮するオーケストラと共演したモップス(その2)

一柳慧と武満徹が企画した現代音楽とクラシックのイベントで、小澤征爾が指揮するオーケストラと共演したモップス(その2)

1968年6月4日から三日間にわたって開催された現代音楽のイベント「第2回オーケストラル・スペース」で、モップスは小沢征爾が指揮する日本フィルハーモニーと共演した。

武満徹と一柳慧(いちやなぎとし)が企画したこのイベントでは初日の東京文化会館大ホールで、前年にアメリカでセンセーションを巻き起こした「ノヴェンバー・ステップス」が、日本で初めて演奏されている。

世界に‷TAKEMITSU″の名前を知らしめたこの琵琶と尺八とオーケストラのための作品は、ニューヨーク・フィルハーモニックに委嘱されたことから誕生したものだった。

クラシックの専門誌である「音楽芸術」はイベントそのものについて、「圧倒的な観客動員に成功」と評価していた。

しかし一柳が書き下ろした実験的な作品の「アップ・トゥ・デイト・アプローズ」を演奏したモップスに関しては。コンサートに出演したことすら報じていない。

当時のグループ・サウンズ(GS)は“おんな子ども″向けのものとして、まともな音楽には見られていなかったのだ。

とくに保守的なクラシック・ファンには、商業音楽のなかでもGSは低俗だと蔑まれていた。

したがってモップスの音楽を評価する人は、イベントの来場者のなかでもかなり少数派であった。

1950年代に渡米してジュリアード音楽院で学んで帰国した一柳は、アメリカで出会った前衛音楽のジョン・ケージを日本に紹介して、現代音楽やクラシック界に激震を与えたことでも知られる。

その一方では60年代に入ってからロックにも傾倒していたので、自らが書いた実験的な作品の演奏を、サイケデリックを標榜するモップスに依頼してきた。

1968年に「オーケストラル・スペース」を行った経緯について、2015年に行われてインタビューで「勇気のいる仕事」だったと語っている。

ロックは音に電気が使われているところや、反体制である部分にも強く共感しました。日本に帰ってきてから、The Mops(1960、70年代に活動した日本のサイケデリックロックの草分け的存在)とコラボレートをしたこともあります。私が譜面を書いて、彼らの演奏と日本フィルハーモニー交響楽団の演奏を合体させました。オーケストラとロックを同時にやるのは、かなり勇気のいる仕事でしたが、実験的で面白かった。

(戦争を生きた大御所が語る現代音楽の面白さ 一柳慧インタビュー: CINRA.NEThttps://www.cinra.net/interview/201509-ichiyanagitoshi?page=2&genre=music

実際にもクラシック・ファン中心だった聴衆の心には、ほとんど届かなかったようだった。

しかし1965年に来日前のビートルズ単独会見に成功し、大幅に発行部数を伸ばした音楽雑誌の「ミュージック・ライフ」だけは、しっかりコンサート評を書き残していた。

小沢征爾、武満徹という、そうそうたる指揮の下に選ばれて演奏するのは、モップス。50人もの日本フィルハーモニーオーケストラの整列した前に、原色の派手な衣装のモップが登場すると、ドレスアップした”セイジ”をききに来た観客から期せずして、失笑とも嘲笑ともつかぬ小さな笑いがおこりました。
演奏はテープの電子音楽、日本フィルの演奏(創作品であったり、クラシック音楽の断片であったりする)、それにモップスの生演奏。普段とは全く雰囲気の違うステージに、モップスの5人は少し上がり気味の様子でしたが、日頃から得意とする即興演奏を熱演。
しかし、クラシック・ファンにとって、スコアのない、アンプを通してのグループ・サウンズは、相も変わらず騒音としてしか受け止められなかったのでしょうか。演奏を終えたモップスに贈られたものは、嘲笑的にさえ思える拍手でしかありませんでした。

(監修・黒沢進「ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス」シンコーミュージック 344ページ)

クラシックファンが中心だった観客がモップスに対して、どんな反応を示したのかについてはほぼ予想していた通りだった。

このようにアウェイの立場ではあったが、モップスは自分たちのオリジナリティを確立するための貴重な機会として、稀有な体験に学びながら音楽面で役立てていく。

そして画期的なイベントに参加したモップスの勇気に触れて、まともな評価をしてくれた人物がいないわけでもなかった。

たとえばこの文章を書いた記者はモップスの音楽に対して、欧米の先駆者となっていたロックバンドを例にあげて、将来への期待をこのように文章化していた。

イギリスではムーディー・ブルース、アメリカではバニラ・ファッジが試みたこのニューミュージック。日本ではそれが今すぐ現在のファンに受け入れられるかは疑問ですが、ファンをリードしていく気構えも必要でしょう。音楽に対する新しい試みをポピュラーの方向から推し進めてクラシックに、ジャズに、近づいてみること、そこに新しい接点を見つけ出す、あるいは生み出すことをやってみるだけでも貴重です。

(監修・黒沢進「ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス」 344ページ)

1967年に発表した2ndアルバム『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』で、ムーディ・ブルースはオーケストラとの競演で、新しいロックのスタイルを築いたとして話題になった。
彼らはプログレッシブロックいう、それまでにはないジャンルを生み出したと言われる。

しかしモップスは1967年のデビュー曲「朝まで待てない」がヒットしたほかに、これといった楽曲に出会えないまま、GSブームが終わったことで70年代を前に低迷期に入ってしまった。
それでもGSのなかではゴールデンカップスとともに、本格派もしくは実力派として認められていた。

デビュー時にはサイケデリック・バンドとして売り出されたが、次第にイギリスのロックやブルースにバンドの志向が替わった。
そして以前から参考にしてきたアニマルズ、ザ・フー、ゼム、ジミ・ヘンドリックス、クリーム、ドアーズなどに影響を受けていった。

それらのバンドやアーティストはその頃から、世界規模で脚光を浴び始めていたのである。

気迫のこもったロックを追求してきたモップスは70年代に入って、尺八とオーケストラを取り入れた「朝日の当たる家」を発表した。

そこには「ノヴェンバー・ステップス」からの影響が感じられた。

翌年には日本語と英語でレコーディングした意欲作の「御意見無用(Iijanaika)」(作詞:喰始、鈴木博三 作曲:星勝)に取り組んだ。

これは江戸時代の末期に西日本の各地で発生した民衆運動の「ええじゃないか」を受け継いだ、メッセージ色が強い楽曲であった。

その頃からモップスの音楽を支えている独自の価値観を、積極的に評価する声が出始めてきた。

そして突破口になるヤマハのポピュラーソング・コンテストから声がかかって、新しい方向へと歩み始めていくことになるのだ。

1966年に発足したヤマハ音楽振興会が、ポピュラーソングを対象にしたプロの楽曲と、アマチュアやセミプロが応募した楽譜から選ばれた楽曲を、観客に聴かせる場をつくってコンテストを始めたのは1969年の夏からである。

プロの作曲家が中心になった「合歓ポピュラーフェステイバル」では、ヒットメーカーの作詞家や作曲家による書下ろしの新曲を、プロの歌手たちが競うコンテストが、三重県志摩半島に開発されたリゾート“合歓の郷”で7月に開催された。

それとは別にアマチュアによる「作曲コンクール‘69」も、音楽を愛好するアマチュアが作曲した楽曲を、プロやセミプロが歌って演奏する形で11月23日に始まった。

そのためにアマチュアのコンテストでは第1回から第3回まで、正式名称として「作曲コンクール」という言葉が使われた。これが後にポピュラーソングコンテストに名称変更し。略して“ポプコン″へと発展していくのである。

当初は作詞と歌は依頼されたプロか、もしくはその予備軍的な音楽家たちが担当を受け持っていた。

その頃の受賞者の顔ぶれを見てもらうと、方向性が分かってもらえるかもしれない。

「作曲コンクール’69」グランプリ作品(3曲)
「恋人はあなた」作曲:林 雅諺 作詞:柴野 未知 歌:黛ジュン
「からだの中を風が吹く」作詞・作曲:下田 偉咲夫 歌:北上 健
「GRADUATE」作詞・作曲:Joan Wigness 歌:ジ・オフコース

「作曲コンクール’70」グランプリ作品(3曲)
「できごと」作曲:佐藤健 作詞:我谷和夫 歌:弘田三枝子
「道」作詞・作曲:牧野はるみ 歌:沖 一郎
「時は気づかない」作詞・作曲:萩原大造 歌:ピース・メーカーズ

「’71作曲コンクール」グランプリ作品(2曲)
「PleasePleasePlease」作詞・作曲:松田晃 編曲:上田力 歌:ヒデとロザンナ
「雨」作曲:管節和 作詞:森田純一 歌・編曲:モップス

「ポピュラーソングコンテスト’72」グランプリ作品(3曲)
「忘れたはずの愛」作詞・作曲:峰 新也 編曲:三保 敬太郎 歌:伊藤 愛子
「何処へ」作曲:星 勝 作詞:小谷 夏 歌・編曲:モップス
「ゴリラの唄」作詞・作曲:松田 篝 編曲:大塚 善章 歌:チューインガム

初年度にアメリカから応募してきた楽曲を唄ったジ・オフコースは、のちにオフコースとして成功している。また黛ジュンは前の年に「天使の誘惑」で、第9回日本レコード大賞に輝いていた。

だが特筆すべきは71年と72年にモップスが課題曲とオリジナル曲で、2年連続でグランプリに選ばれたことであろう。

きっかけはヤマハ音楽振興会で働いていた友人から、「フルバンドのオーケストラとモップスで共演できないか」という問い合わせが、担当の川瀬泰雄に入ってきたことだった。

小沢征爾が指揮する日本フィルハーモニーと共演したことが、こんな形になって時代の変化とつながってきたのだろうか。

ギタリストの星勝はロックバンドの制約にとらわれることなく、オーケストラの管楽器や弦楽器を活かしたアレンジに関心を持っていた。

そしてリーダーの鈴木ヒロミツもメンバーたちの才能を伸ばしたいと積極的に賛成してくれたので、この話はスムーズに進んだ。

このタイミングで「’71作曲コンクール」の企画を持ち込まれたモップスは、GSやロックバンドという狭いジャンルから解き放たれて、才能を全開させていくことになる。(続く)

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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