佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 132

Column

海外での評価が高いモップスについてもう一度、日本の音楽史における再評価に挑んでみたい(その1)

海外での評価が高いモップスについてもう一度、日本の音楽史における再評価に挑んでみたい(その1)

強烈な印象を残したブルース・ヴァージョンの「月光仮面」

1967年に始まったGS(グループサウンズ)の熱狂が1969年を境にして、水を引いたように静まった後に、同じホリプロに所属するバンドのザ・サベージやヴィレッジシンガーズ、ジ・オックスなどが次々に解散していった。

そんな状況のなかで活動を続けていたモップスに、ひょんなことからヒット曲が生まれたのは1971年のことだ。

ジャズ喫茶で大胆なブルース・アレンジに変えて取り上げた「月光仮面」が、アドリブによる面白おかしいトークで注目されてレコードが発売になると、デビュー曲「朝まで待てない」を上回る3年ぶりのヒットになったのである。

子供向けのアクション・ドラマだった『月光仮面』の主題歌が、どうしてジャズ喫茶でブルースになって若い女性ファンに受けたのか? 

そこで始まった内輪受けの音楽ネタが、なにゆえにシングル盤でレコード化されたのか?

当時のジャズ喫茶は昼の部、夜の部に分かれていて、忙しいバンドは昼に銀座のジャズ喫茶で5回、夜は池袋のジャズ喫茶で5回というようなスケジュールで、1ステージ30分ほどを演奏した。

客席にたくさんの女性ファンが詰めかけてくれると、熱気に包まれて張り合いも出るのだが、人気が下降してくると入場者もまばらになり、毎回のようにやってくる熱心な常連客だけが、昼の部からずっと見ている状態になった。

そうなるとステージごとに同じ曲ばかり演奏するわけにもいかず、かといって違うセットリストでこなしてゆくのは負担が大きい。そこでモップスが重宝したのは、ヴォーカル担当の鈴木ヒロミツによるトーク・タイムだった。

のちに俳優や司会業で活躍する鈴木ヒロミツは面白おかしい話題で観客を笑わせながら、巧みな語り口でトークに引き付けていく。

それが観客に受けて長引くと、1ステージの演奏が2~3曲ということもあったらしい。

そうこうするうちにバンドの演奏とセットだった“音楽講座″に、いつしか人気が集まるようになった。

ロックはこういうビートで、タンゴはこういうリズムでと、同じ曲のなかで違いを実際にバンドが演奏していく。

その例として取り上げたのが、当時は誰もがみんな知っている「月光仮面は誰でしょう」だった。

「月光仮面は誰でしょう」
作詞:川内康範 作曲:小川寛興

どこの誰かは 知らないけれど
誰もがみんな 知っている
月光仮面の おじさんは
正義の味方よ 善い人よ
疾風のように 現れて
疾風のように 去って行く
月光仮面は誰でしょう
月光仮面は誰でしょう

大瀬康一主演によるテレビ映画『月光仮面』(監督:船床定男)は、1958年の2月24日から放映を開始した。テレビが1960年代に急速に普及するにつれて、日本で最初のヒーロー活劇の『月光仮面』は、子どもたちの間で絶大な人気を得ていった。

そんな誰もが知っている国民的人気番組の主題歌を、モップスはステージで面白おかしく取り上げていた。やがて星勝のアドリブで歌がトーキング・ブルースのようになり、鈴木ヒロミツのトークが即興でからみあってくる。

日によっては支離滅裂な展開になりながらも笑いをとっていたモップスは、観客の反応に応じてギャグを定番化し、コミカルな作品にブラッシュアップしていった。

客を飽きさせないために工夫をこらすのは、エンターテインメントの基本である。ジャズ喫茶出身の叩き上げだったバンドには、そうしたことが当初から肌身についていた。

マネージャーを兼務していたディレクター、ホリプロダクションの川瀬泰雄氏による説明を引用したい。

あの有名な「月光仮面は誰でしょう」の歌詞が星勝のブルース風の歌で始まる。
途中タンゴのリズムになり「バギューン、弾丸よりも早く...アッ空を見ろ!~」と、「スーパーマン」のオープニングのセリフになってしまう。
もともと大瀬康一扮する探偵、祝十郎が変身して月光仮面になるという設定の筈が、何故か宇宙人という設定になってしまうというハチャメチャな始まり。
途中通訳の鈴木ヒロミツが、宇宙語をしゃべる星勝の月光仮面にインタビューするのだが、この宇宙語と通訳が、ライブになると毎回演奏するたびに違ってくるという面白さだった。
当意即妙さと出鱈目な通訳の、出てくるものすべてが意表をつく作品だった。

(大人のミュージックカレンダー 1971年3月25日はモップスの「月光仮面」が発売された日である 執筆者:川瀬泰雄 http://music-calendar.jp/2016032501)

「月光仮面の大好物はレバニラ炒めと餃子でいこう」と言った原作者

ブルース・ヴァージョンになった「月光仮面」をライブで聴いたモップスの担当プロデューサーで、東芝EMI の平形忠司が「これ、面白いからレコーディングしよう」と提案してきた。

もともとステージの時間つぶしでスタートした“音楽講座″だから、それがレコードになったとして、本当に面白いものになるのかについては、バンドのメンバー内から疑問の声があがったという。

しかし「とにかく面白ければいいじゃないか」という平形の意見に、リーダーの鈴木ヒロミツが同意する形でレコーディングが行われることになった。

ところがジャズ喫茶という気さくな雰囲気の現場で、観客の反応に合わせて生まれてくるアドリブや、メンバー同士のかけ合いによる面白さを、無機的なスタジオで再現するのは難易度が高かった。

いくつかのテイクを録っているときはいい感じでも、いざOKテイクを選んで聴いてみると、妙にしらけることが多かったのだ。だから最後まで完成させてはみたものの、破天荒な内容になったこともあって、発売に関して作者から許諾が出るかは微妙だった。

そこで事前に主題歌も作詞していた「月光仮面」の原作者、川内康範氏に許諾をもらうことになった。平形プロデューサーとスタッフがおそるおそる挨拶に伺って、持参したテープを聴いてもらったところ、その場で「面白い!」と気に入られて許可がおりた。

そして川内氏が自ら間奏のパートに、新しく台詞を書き加えることになった。

その時のことを鈴木ヒロミツがこんな文章に遺していた。

レコーディング当日は、スタジオに川内先生もいらした。先生は、月光仮面の大好物はレバニラ炒めと餃子というフレーズでいこう、とおっしゃった。僕たちは心配だったんですけれども、それが受けちゃった。
(鈴木ヒロミツ著『余命三ヵ月のラブレター』幻冬舎 64ページ)

1971年3月25日に発売された「月光仮面」のシングルは、デビュー曲「朝まで待てない」以来のヒットに結びついた。

ここでモップスは長かった低迷期間から、ようやく脱出することができたのである。

しかしテレビやラジオで「月光仮面」を知った人が増えるにつれて、コミックバンドだと誤解されることも多くなった。例によって音楽にまったく理解がない芸能マスコミからは、「月光仮面」だけの一発屋であるかのように扱われた。

GSからの生き残りとして健在ぶりを示せたまでは良かったのだが、さすがに不本意な扱いが増えると痛し痒しの面も出てきた。

そのような偏見や誤解を払拭するためには、ロックバンドらしい会心のヒット曲を出すしかない。

そこから日本語のロックに本格的にトライする方向に舵が切られて、画期的なアルバムに結びついていった。(続く)

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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