佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 131

Column

「命がけで伝えないと、感動というものは、呼び起こせない」

「命がけで伝えないと、感動というものは、呼び起こせない」

2002年に亡くなった川上源一さんの著書『子供に学ぶ』を再読したのは、2月13日に東京のNHKホールで行われた中島みゆきの『2020 ラスト・ツアー 結果オーライ』に参加して、本番中に何度か育ての親のことを思い出したからだった。

文字通りの恩師であった川上さんが残した最後の著作に、その日のコンサートでぼくが感じた思いを、そのまま言い表すような文章があったはずだ。

そう思ってさっそく本を手にとって、アタマからななめ読みしながら、気になった言葉を探していった。

ところがその途中で、「こんなに大切なことが書いてあったのか」と驚かされる文章に何度か出会った。

そしてテーマによっては同じ文章を3度も4度も、かみしめるのように読み直すことになった。

教育が人間形成の場であるかぎり、教育者というものは子どもたちに全人格をもって対応する“師″でなければならない。知識や技術の上でも、人格的にも、尊敬される“師″でなければならないのである。

川上さんは自分が企画して始めた「ポピュラーソングコンテスト」(ポプコン)の人気が、5年目にしてピークに達していた1975年に、応募曲のデモテープから「時代」という作品に耳を留めた。

恋人同士の恋愛を描いた作品が主流だったその時代に、叙事詩のような趣きをたたえる歌詞が新鮮で、ひときわ輝いて聴こえたという。

スケール感がある大きな歌をつくった才能を尊重して、川上さんは北海道に住んでいた本人を呼んで、「あなたはすごい詞を書く。将来、詞で勝負するようなアーティストに育って欲しい」と激励している。

歌や音楽を作った人が自分で表現することベストだと考えていた川上さんは、それまでもシンガーソングライターを積極的に評価し、ヤマハとしてバックアップしていた。

中島みゆきはそれから数か月後、第10回ポピュラーソングコンテストと第6回世界歌謡祭で、ともに「時代」を歌って堂々のグランプリに輝いたのである。

そんなことを思い起こしながら「子供に学ぶ」読み進むなかで、108ページまで来たところで、やっと探していた文章に出会えた。

そこには、こんな言葉がつづられていた。

人に音楽を聴かせるというのは、自分の感情を伝えるために必要なテクニック、演奏する力はどうしても必要だけれど、必要なテクニックができているなら、自分の人となりや自分の気力や感情を、思い切って、命がけで伝えることなのだと思う。
命がけで伝えないと、感動というものは、呼び起こせない。

その言葉の端々に込められた熱情こそが、行動派だった川上さんらしいと思った。

1966年に財団法人としてヤマハ音楽振興会を立ち上げて、そこから川上さんはポピュラー音楽の発展に力を入れた。

なかでも才能あるアマチュアを発掘して育てるポプコンに注力し、自らが先頭になって音楽事業の柱にしていった。

そんな川上さんにまず作品で見出されて、そこから大きく成長したシンガーソングライターが中島みゆきだった。

コンサートのパンフレットを眺めながら彼女が歌った姿を思い浮かべたとき、「自分の人となりや自分の気力や感情を、思い切って、命がけで伝える」と書いた川上さんの言葉が重なった気がした。

その瞬間、ぼくは音楽のマジックを感じたように思った。

1912年に生まれた川上さんは明治人で、音楽といえばクラシックという時代に思春期を過ごしている。

若い頃に親しんだ音楽はクラシックだけで、それ以外にはポピュラーもロックもなかったという。

それでも音楽の本質にはしっかりと触れていた。

私はショパンとシューベルトが好きだった。シューベルトの田舎くさい素朴な情緒性というものに惹かれ、やがて、ショパンのエレガントで非常に洗練された世界が好きになっていった。メロディーとハーモニーが美しく感じられたものだから、自分でシューベルトのソナタのアルバムやショパンの楽譜を買ってきたりした。

川上さんは聴くだけではものたりなかったので、家にあったピアノでメロディーの美しいところ、さわりのフレーズだけを弾いて喜んだりしていたという。

しかし社会人になってからは仕事中心の生活になって、音楽への関心は学生時代の段階でとどまっていた。

やがて日本楽器の社長だった父のあとを継いで第4代社長になった川上さんは、社会勉強のために1953年に世界一周の旅に出発した。
そして海外では音楽が生活とともにあり、さまざまな局面で人々の役に立っていることに気づかされた。

もうひとつ、豊かな生活を支えているのは経済力だけではなく、レジャーを楽しむ心の余裕だということ知って、カルチャーショックを受けたのだ。

帰国してからの川上さんはオートバイの開発と製造に乗り出し、ヤマハ発動機株式会社を創業している。

自ら走行テストに乗るくらいに熱心だったが、確かな技術力のおかげで短期間に著しい成功を収めていった。

本業の楽器製造でも工場のライン化を進めたことで、ピアノの生産台数を世界一にまで伸ばした。

さらには電子楽器にも挑戦して「エレクトーン」を開発し、世界のトップメーカーとして地位を確立していく。

そこからは音楽を聴くことや楽器を演奏することを、普通の生活の中に取り込んで身近なものにするために、ポピュラー音楽の普及活動に力を入れるようになった。

1966年はビートルズの来日公演を契機に、日本の若者たちは自ら楽器を手にしてフォークやロックを演奏し始めた。しかも自分たちが作った曲を歌うようになったという意味で、音楽史においては記念すべき年であった。

日本の音楽シーンにはそこから大きな変革がもたらされるのだが、それを熱心にサポートしたのはその年に設立された(財)ヤマハ音楽振興会だ。

川上さんはここで画期的な「自作自演のルネッサンス」を提唱し、自由な発想の若者たちをサポートすることによって、旧態依然としていた音楽シーンに改革を促していく。

ヤマハがポピュラーソングコンテストを呼びかけて、全国のアマチュア音楽愛好家たちから楽曲を募り、自分たちの生活感情を歌に表現する“うたごころ運動″を始めたのは1969年のことだ。

その時に川上さんが心の支えにしたのは、「生きた音楽」にたいする熱い思いだった。

私は、それがどんなに骨が折れようが、回りくどかろうが、やっぱり自分の感情で作った曲は自分で表現するのが、最もしっくりくるであろうし、演奏家にとっても、聴き手にとっても、感激が深いものであると思う。そこにこそ、血も肉も魂も感じられる「生きた音楽」が生まれるのだと思う。

この「子供に学ぶ」に書かれている音楽観は川上さんが60歳を過ぎてから、ヤマハ音楽教室で育った子供たちの美しく、自由な音楽を聴くことによって導かれたものだという。

ポプコンを始めた頃に描いていた未来の音楽地図は、その50年後になってさまざまな形で実現している。

そして川上さんに見出された中島みゆきは観客の前で、今も「生きた音楽」を生み出し続けているのである。

<参考文献>川上源一著「子供に学ぶ」(発行:財団法人ヤマハ音楽振興会)

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち

著者:佐藤剛
ボイジャー

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