佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 125

Column

「舞台で歌うときに、少しでも客を喜ばそうと思うことがあって、わたしのうたはそんな時、きまっていやらしいのだ」~浅川マキ

「舞台で歌うときに、少しでも客を喜ばそうと思うことがあって、わたしのうたはそんな時、きまっていやらしいのだ」~浅川マキ

2010年に亡くなった浅川マキの命日、1月17日が近づいてきた。

そのせいだったのか、“マキさん”のことを思い出していたら、ふと、「赤い橋」の歌声が聴こえてきたように思った。

このところしばらく、北山 修の著書『戦争を知らない子供たち』を読み直していたからだろう。

北山 修が作詞した水の流れない橋の歌に曲をつけたのは、ジャズオーケストラ「ニューハード」の作曲と編曲で活躍していた山本幸三郎だった。
そして1972年3月5日に発表された初のライヴ・アルバム『MAKI LIVE(マキ・ライヴ)』に収められた。

不思議な橋が この町にある
渡った人は 帰らない
昔、 むかしから 橋は変わらない
水は流れない いつの日も
不思議な橋が この町にある
渡った人は 帰らない

大学がロックアウト期間だった1年間の限定で、北山 修はフォーク・クルセイダーズ(フォークル)のメンバーとして活動した。

1968年にフォークルを解散させた後は、当初の約束どおり京都府立医科大学に復学した。

プロのフォークグループは仮の姿だったので、アマチュアの医大生に戻ったのである。

しかし作詞家としての仕事を引き受けるようになり、歌謡曲の世界でも、アンダーグラウンドの世界でも、ヒット曲や話題作を書き始めた。

そこにフォークル時代につくっていた「戦争を知らない子供たち」(作曲:杉田二郎)を、ジローズが1971年2月5日にシングル発売してヒットさせたことから、その年の日本レコード大賞では作詞賞に選出された。

GSのスパイダースが解散してソロになった堺 正章に提供したデビュー曲の「さらば恋人」は、1971年5月1日に発売されてヒットした。

これはその後も多くのシンガーに歌い継がれて、今ではスタンダード曲になっている。

またTBSラジオの深夜放送『パックインミュージック』でDJを始めたことから、若いリスナーと向き合って身近な問題をテーマに真剣に語り続けたので、とくに中学生と高校生に注目される存在になっていった。

「赤い橋」が誕生するきっかけは、ゲストで呼ばれた“マキさん”が番組終了後に、作詞を依頼したからだったという。

いろんな人が この町を出る
渡った人は 帰らない
赤く赤く 塗った
橋のたもとには
赤い赤い花が 咲いている
不思議な橋が この町にある
渡った人は 帰らない

ところで、医大生に戻ったはずだった北山 修のスケジュールは、ラジオのDJとテレビの司会がレギュラーになって、常軌を逸するものだった。

受講する授業を調整して週一日、木曜日を必須科目のゼミがない日として確保した。
そして水曜日の授業が終わったらすぐに上京し、赤坂のTBSで深夜放送『パック・イン・ミュージック』の打ち合わせをディレクターと行なった。
スタジオの近くで夕食を済ませた後には六本木に移動し、TV朝日『23時ショー』という生放送の50分番組で司会を担当した。

そこからまた赤坂のTBSラジオに戻って、朝までディスジョッキーを務めた。

少し仮眠をとってから新幹線で京都へもどって、午後から大学で講義を受けるというのが基本だった。
雑誌のインタビューも受けるのは移動の合間で、作詞の仕事を手がけるのは新幹線の車中が多かったという。

そんな状況のなかで頼まれた“マキさん”からの依頼に、あたかもプロフェッショナルのように応えたのが「赤い橋」だった。

“マキさん”は「戦争を知らない子供たち」が流行っていた頃、こんなことを思っていたそうだ。

「戦争を知らない子供たち」と言うフォークソングが、何故あるのか、私は不思議に思ったりした。
ブルースなんて、そんなもの失くなってしまえ、と思っている奴、そいつらこそブルースだと思う。

ふつうの大学生に戻っていることを自覚していた北山 修は、「赤い橋」を書いたと思われる1971年に、素人の作詞家としてこんな言葉を残していた。

いつどんな曲がヒットするかわからないし、誰がスターになるか全くわかりません。どこまでがプロで、どこまでがアマチュアであるというようなことは誰にも言えないはずです。テクニックなんかでもアマチュアのほうがずっとうまいことがよくあり、最近のアマチュア・コンテストの技術内容なんか目を見張るほどの進歩を遂げています。
素人が常にプロの連中をおびやかし続けることは、音楽の向上のためにとてもいいことである。このことは、作詞家、作曲家についても言えることで、素人の作品がやたらヒットしてほしいと願う。
本当のプロフェッショナル、誰もがすばらしいと思うプロフェッショナルの登場のため、この旧態依然とした芸能界は一度、大混乱に巻き込まれるべきなのだ。
(北山 修 著『戦争を知らない子供たち』206ページ)

自分が素人であることをいつも意識していた北山 修は、プロフェッショナルとアマチュアの間にこそ、「赤い橋」がかかっていると見ていたのかもしれない。

そうだとすれば彼は今もなお、「赤い橋」を渡ってはいないのである。

不思議な橋が この町にある
渡った人は 帰らない
みんな何処かへ行った
橋を渡ってから
いつかきっと 私も渡るのさ
いろんな人が この橋を渡る
渡った人は 帰らない

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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