佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 123

Column

悠木千帆という名前で人気が出た若い頃には”よく切れるジャックナイフ”のような役者だったという樹木希林さん

悠木千帆という名前で人気が出た若い頃には”よく切れるジャックナイフ”のような役者だったという樹木希林さん

いまから55年前、ちょうどオリンピックが開催される直前と直後、それぞれ半年ずつ放映されて人気を博したホームドラマがあった。
その当時、白黒テレビ受像機の普及率は90%にも達していた。

そうしたテレビ時代に人気を博したのが、松下電器が提供する「ナショナル劇場」(月曜8時~9時)のホームドラマ『7人の孫』だった。 主演は国民的な映画俳優で、50代になったばかりの森繁久彌である。
森繁久彌は「知床旅情」などの歌でも人気があり、NHK紅白歌合戦の常連であった。

音楽で時代背景を流行歌で説明するとこうなる。
新人歌手の西郷輝彦が1964年3月に「君だけを」でデビューし、先行していた橋幸夫と舟木一夫に並ぶ人気を得て、青春歌謡の“御三家”の時代が始まった。

北島三郎と都はるみの人気が上昇して、その年の秋に「アンコ椿は恋の花」がヒット、翌年には「兄弟仁義」がヒットしたことで、後に演歌と呼ばれるようになるジャンルが活気を呈した。

日本にビートルズ旋風が巻き起こったのも、1964年の春から夏にかけてのことだった。

初のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」と「抱きしめたい」が3月上旬に、ほとんど同時にリリースされた。
しかしこの段階でビートルズに夢中になったのは中学生と高校生ばかりで、大人たちはもちろんのこと、大学生もまったくといっていいくらい無関心だった。

ベンチャーズが来日してエレキブームに火がついたのは1965年からで、ここから高校生と大学生の男性たちがバンドを始めていく。

まさにそうした変化の時代が到来した時に始まったドラマの『7人の孫』は、森繁久彌を中心して、若手の人気俳優が勢揃いして孫を演じていたのだった。

ぼくはこのドラマを初回から、ほとんど欠かさずに観ていた記憶がある。
とくに印象に残っているのは頼りがいのある長男役・高橋幸治の落ち着いた演技と、デビューしたばかりのいしだあゆみが、まだ16歳でとても初々しかった。

しかし、住み込みで働く「おとしさん」というお手伝いさんに扮した新人の悠木千帆が、ドラマが進むにつれて独特の存在感を発揮し始めて引き込まれた。

当初はまったくの脇役だったはずが、ご隠居役の森繁久彌と交わす当意即妙のやりとりで、いつの間にか人気が急上昇したのである。
とにかく自然体の演技がどこかアドリブ的で、とぼけた味の森繁久彌と組むと不思議な面白さを醸し出していたのだ。
彼女は樹木希林になってから、『7人の孫』をこんなふうに振り返っていた。

最初はもちろん、タイトルに出るような役じゃないですよ。それが2本目くらいを撮ってるときに、ちょっとお手伝いの役で残れる人いないって言われて、あ、行きます、行きます、って。それが始まりなのよ。
そうしたら何だか役が独り歩きしちゃって、しまいには「おじいちゃんと私」という番組を作るなんて話になって、それはやめてくれと言いました。

番組のテーマソングは森繁久彌が書き下ろした歌詞の「人生賛歌」で、この歌はよく覚えている。

「人生賛歌」を作曲した音楽監督は、映画『男はつらいよ』シリーズの山本直純だ。
クラシック的な構造でドラマティックな楽曲だったが、ぼくは前向きで明るい力強さが好きだった。

2年にも及んだ「7人の孫」の放送が終わって、そこから5年が過ぎた頃に、ぼくは偶然にも映画館のスクリーンで悠木千帆に再会した。

1970年の正月明けに劇場に足を運んだのは、「男はつらいよ」シリーズの第3作で渥美清が主演する『男はつらいよ フーテンの寅』を観たかったからである。すると映画が始まってまもなく、ほとんど素顔に近い(と思われる)悠木千帆が出てきた。

森崎東監督は『喜劇・女は度胸』で前年にデビューした新人で、人間が生きる様のおもしろさや真剣さをユーモラスに描いて、新しい喜劇の才能だと将来性を高く評価されていた。

だから山田洋次監督の世界観でつくられていた「寅さん映画」にあっても、森崎監督は「テキ屋の世界というのは、本当に孤独な旅の空」だという、自分のイメージをはっきりと打ち出していた。

それがよく表されていたのが、寅さんが旅館の女中さんに扮した悠木千帆に、葛飾・柴又の「とらや」一家の写真を見せる場面だ。

寅さんは映画の冒頭から信州木曽奈良井の旅館・越後屋の部屋で、風邪で体調がすぐれないという設定になっていた。

そして寅さんが気立てのいい悠木千帆の女中さんに向かって、おいちゃんとおばちゃんのことを、お袋と親父だと説明するのである。
そして妹のさくらを女房と言い、おいの満を自分の子供だとも偽っていた。

しかし一人になると写真を眺めて、「いくら可愛くても妹じゃしょうがねぇや」とため息をついてくしゃみをし、「落ち目だなぁ」とつぶやく。
とても切なくて、笑いたくても笑えないシーンだった。

この第3作「フーテンの寅」はエネルギッシュだった頃の寅さんが、旅先において本当の姿をさらけ出していたという意味で、今では異色作といわれている。

ぼくにとっては究極の孤独を描いたことで、もっとも心を打たれた寅さん映画である。
しかも悠木千帆が実は意外に若くて、ほんとうに可愛い女性であることが、こうして完全にインプットされたのだ。

悠木千帆はその後、テレビの連続ドラマ「時間ですよ」のシリーズで、老け役を務めて好評だったことから、「寺内貫太郎一家」では小林亜星が演じた主人公の母親役を演じた。

しかしその老け役は、完璧を追求する役者の執念によるものだったという。

樹木希林の妹である琵琶奏者の荒井姿水さんは、2018年に雑誌『婦人公論』の取材記事「実妹が明かす過激で過剰な姉の素顔」のなかで、こんな言葉を述べていた。

「役者の世界に入ってからの姉は、非常によく切れるジャックナイフのようでした。人の言葉に敏感で、何かを感じると、鋭い刃がパッと飛び出る、だから、なるべく近寄らないようにしていました。どこで傷つけられるかわからないですから」

売れっ子になった芸名をわずか2万2千円で売却して、自ら樹木希林という名前を選んだ稀代の女優が生きてきた世界は、まだまだ荒野のようにぼくの目の前に広がっている。

ところで、もうすぐ2020年マイ・ラスト・ソングの公演が開かれることが発表された。
今回は“〜久世さんが残してくれた歌〜 「懐かしの水曜劇場編」”というテーマである。
そして「懐かしの水曜劇場編」といえば、久世さんが演出とプロデュースに関わった「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「ムー」「ムー一族」の全てに出演していたのが、樹木希林(悠木千帆)だった。

よく切れるジャックナイフのようだった役者の思い出と、久世さんの好きだった歌がどう結びつくのか、ぼくも小泉今日子さんのトークと、 浜田真理子さんの歌とピアノを楽しみにしている。

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち

著者:佐藤剛
ボイジャー

ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。

1966年のビートルズ来日公演、それは今になってみれば、奇跡的といえるものだった。いったい誰が、どのようにしてビートルズを日本に呼ぶ計画を立てて、それを極秘裏に進めて成功に導いたのだろうか? これは日本の経済復興の象徴だったリーディング・カンパニーの東芝電気と、その小さな子会社として生まれた東芝レコードにまつわる、歌と音楽とビジネスをめぐる物語である。

vol.122
vol.123
vol.124