黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 16

Interview

FFイラストレーター天野喜孝氏(上)絵を描くことが好きだった少年、タツノコプロへ

FFイラストレーター天野喜孝氏(上)絵を描くことが好きだった少年、タツノコプロへ

「ああ、ひとりになっちゃった」みたいな感覚

それは、やっぱり東京に行きたかったんでしょうか。

天野 いや、東京に行きたいとはまったく思ってなかったです。できれば静岡にね、親元にいたかったです。でも、絵が描ける、そういう場所があるっていう。あと、当時はやはりアニメーションっていうのが新しかったんですね。最先端で、すごくきれいな絵だなと思って。

では、実際にタツノコに入られてみて、どのように感じられましたか? 厳しいなとか、自分が考えていた世界とはまたちょっと違うな、みたいなことはありましたか?

天野 初めて会社に行く前の日の夜のことは今でも覚えています。桑畑の中にね、寮みたいなのがあるんですよ。

タツノコさんの寮が。

天野 ええ、それで兄貴がひとり東京の方にいまして、静岡の長男と一緒に寮まで来てくれたんです。でも、当たり前ですけど、みんな帰っちゃいますよね。ポツンとひとりになって、「あれ?」と思って。愕然としたんですよ、「ああ、ひとりになっちゃった」みたいな。なんて言うんでしょう……そのときの孤独感みたいなのはね、なんとなく原体験としてあるんですよ。しかも、東京といっても小平のほうですからね。ド田舎なんです(笑)。

あの頃は何もなかったでしょうね。

天野 今でもないですけどね(笑)。それで、これはなんだろうと思ったんですが、次の日に会社に行ったら180度、バンと変わって「これは楽しい!」と。それからは、そういうことはもうなかったですね。

その当時、15歳の働き手というのは天野さん以外にもいらっしゃったんですか?

天野 何人かいましたね。

確か、同僚に富野由悠季さん(注6)とか大河原邦男さん(注7)とか、すごい方たちがいっぱいいらっしゃったんですよね。

注6:『海のトリトン』『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』など、数々の名作を生み出したアニメ作家。『紅三四郎』『昆虫物語 みなしごハッチ』などのタツノコ作品の制作にフリー演出家として参加していた。
注7:『機動戦士ガンダム』のモビルスーツをはじめとする、さまざまなロボットやメカのデザインを手がけたことで知られるメカデザイナーの巨匠 。竜の子プロダクション出身で数々のタツノコ作品のメカデザインを担当した。

天野 彼らはそのあとぐらいですよね。その頃、富野さんはまだ虫プロ(注8)勤務だったと思うんですよ。

注8:手塚治虫が設立したアニメ制作会社で正式名は「虫プロダクション」。日本初のテレビアニメである『鉄腕アトム』や初のカラー作品である『ジャングル大帝』などを生み出すが、資金繰りが悪化したため倒産した。

『キャシャーン』あたりからキャラクターをゼロからつくり始めた

その頃のお仕事についてですが、会社が取ってきた仕事の絵を描くような感じだったんでしょうか。

天野喜孝氏 17歳

天野 まず、研修期間があって、それから動画、それから原画とやりながら……17、8歳ぐらいからキャラクターデザインとか作画監督とかを同時にやるようになったんです。で、だんだんだんだんキャラクターの方にシフトしていって。キャラクター室っていう、なんか小さい部屋に閉じ込められて、そこでやるようになったんです。

そこで、『科学忍者隊ガッチャマン』(注9)とか『新造人間キャシャーン』(注10)といった、当時のタツノコを代表するようなものを生み出されていったわけですか。

注9: 悪の秘密結社ギャラクターに対抗すべく結成された、5人の少年少女たちからなる特殊部隊「科学忍者隊」の活躍を描く。初期タツノコの代表作で、個性的なキャラクターや本格的なSF世界、華麗な格闘アクションなどが受け大ヒット。のちの日本のアニメや特撮に多大な影響を与えた。1972~74年放映。
注10:ブライキング・ボス率いるアンドロ軍団の脅威から人間を守るため、不死身の新造人間となったキャシャーンの戦いを描く。敵と同じ機械の体となった主人公の葛藤や人間との軋轢を描くなどハードなストーリーが話題を呼んだ。1973~74年放映。

天野 あ、『ガッチャマン』は僕じゃないです。吉田竜夫さん(注11)とか、すごい偉い人たちがみんなで作って、それに僕も参加したってだけですね。

注11:タツノコプロ初代社長。絵物語作家や漫画家として活躍していたが、1962年に竜の子プロダクションを設立。『科学忍者隊ガッチャマン』をはじめとする数多くの人気作品を制作し、東映や虫プロとともに草創期の日本のアニメをけん引した。

なるほど。

天野 『キャシャーン』くらいからですかね、いろいろゼロからキャラクターを描いたりするようになったのは。それをやりながら原画とかもやったりしていたんですが、途中からさっきも言いましたキャラクター室というのができたんですね。いつ頃かはちょっと覚えてないんですけど。

言われるがままです(笑)

ええ。

天野 タツノコはほとんどがオリジナルの作品だったんですね。原作がないんで、ゼロから生み出さなきゃいけない。だから、僕たちだけじゃなくて脚本の人も……企画文芸室っていうのがあるんですよ。キャラクター室と隣り合わせでね。それで、吉田竜夫さんとか、九里一平さん(注12)とか、あと鳥海尽三さん(注13)とか。鳥海さんはもう亡くなられたんですけど、もともと映画畑の脚本家だったんですね。そうした方たちが企画を出してきて。それを具体的にしようっていうことでキャラクターを作って、お話を作って、それらをまとめて代理店やテレビ局にプレゼンに行くっていう。そういうシステムでやっていたんですね。そして、それらが新作として世の中に出てくる……出てこないものも多いんですけどね。

注12:吉田竜夫の弟で次兄は吉田健二。漫画家としてデビューするが、竜夫らとともに竜の子プロダクションを設立。『科学忍者隊ガッチャマン』『ハクション大魔王』など、さまざまなアニメ作品のプロデューサーや監督などを務めた。
注13:アニメ草創期から脚本家として活躍していた草分け的存在で、タツノコの作品にも最初期から参加。タツノコ退社後は『鎧伝サムライトルーパー』『ミスター味っ子』などの構成や脚本を担当するかたわら、シナリオサークル鳳工房を主宰するなど後進の育成にも力を注いだ。

出てこないのもかなりあったんですか。

天野 はい、そっちの方が多いですね。もちろん、(アニメの)制作もやっていましたよ。背景とか原動画とか編集とかっていう部署もあって、そこでやっていました。そういう意味ではアニメ制作会社なんですけど企画会社でもあるんです。その中にシナリオもキャラクターも組み込まれていて、それらをトータルでプレゼンしていくっていう。

そのキャラクターの作り方なんですけど、たとえば世界観やストーリーがあって、それに沿って作られていたのか。それともご自身の中のイマジネーションから生み出していたのか、天野さんなりのやり方はあったんですか。

天野 いや、言われるがままです(笑)。

やっぱり、当時はそういう形ですか。

天野 もちろん、決定権は会社にあるというかね、社長の吉田竜夫さんが最終的に(決定を)出すんですけども。たとえば『ガッチャマン』の場合はリアルな感じでやろうとか、その辺はちょっと覚えてないんですけども……じゃあ、お話をどうしようかってことで、それは企画文芸室に振られて。それで、お互いに旅館とかホテルに篭もってやるんですよ。で、1週間後ぐらいにキャラクターとお話を照らし合わせて、足したり引いたりしながら企画書としてまとめてっていう。そういう感じだったと思うんですね。


続きは第2回インタビュー
5月21日(月)公開予定

FFイラストレーター天野喜孝氏(中)独立してアニメからリアルへ、そしてFFとの出会い

FFイラストレーター天野喜孝氏(中)独立してアニメからリアルへ、そしてFFとの出会い

2018.05.21

著者プロフィール:黒川文雄【インタビュー取材】

くろかわ・ふみお
1960年、東京都生まれ。音楽ビジネス、ギャガにて映画・映像ビジネス、セガ、デジキューブ、コナミDEにてゲームソフトビジネス、デックスエンタテインメント、NHN Japan(現LINE・NHN PlayArt)にてオンラインゲームコンテンツ、そしてブシロードにてカードゲームビジネスなどエンタテインメントビジネスとコンテンツの表と裏を知りつくすメディアコンテンツ研究家。コラム執筆家。アドバイザー・顧問。黒川メディアコンテンツ研究所・所長。株式会社ジェミニエンタテインメント代表。DMMオンラインサロンにて「オンラインサロン黒川塾」を展開中。
黒川塾主宰。ゲームコンテンツ、映像コンテンツなどプロデュース作多数。

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