『変身と冒険を繰り返してきたボウイの新たな挑戦』
’80年9月、RCAからは最後の作品となる『スケアリー・モンスターズ』をリリースしたボウイは、同作から「ファッション」などのヒット・シングルが生まれているにもかかわらず、音楽とは距離を置いた。
この頃のボウイは、自由で寛容な空気を失くしつつあった音楽業界に対してネガティヴな気持ちでいたという。代わりに飛び込んだのは演技の世界だ。すでに『地球に落ちて来た男』や『ジャスト・ア・ジゴロ』で映画出演の経験はあったが、80年代に入ってすぐのボウイは、これまでになく役を演じることに没頭した。
’80年9月にスタートしたブロードウェイの『エレファント・マン』は年末まで続き、うるさ方の批評家から賛辞を得た。BBCのドラマ『バール』(ベルトルト・ブレヒト作)では放浪詩人を、カトリーヌ・ドヌーヴと共演した映画『ハンガー』では吸血鬼を演じた。
そして、’80年に日本のCMに出演したことがきっかけで大島渚監督の目にとまり出演したのが『戦場のメリークリスマス』だ。当時ボウイは「僕はセリアーズ少佐(ボウイが演じた役)の中に、僕自身にもある罪の意識を見い出した」と語り、深く映画に入れ込んだ。これは、あくまでも個人的な見解だが、本作への出演がボウイに音楽へのモチベーションを取り戻させたのではないか、と思うことがある。
それまでのボウイは、自身の出演作の出来に満足することが少なかった。けれど、映画のテーマに共感し、充足感を得られる仕事をしながら彼は、再び音楽に向き合うことを決断できたのではないか、と。

『レッツ・ダンス』
ワーナーミュージック・ジャパン
’83年発表
古巣RCAを離れて新天地EMIアメリカに移籍したボウイは、’83年に『レッツ・ダンス』をリリースする。明確に「商業的なヒット作品を作る」ことを目標とし(=変身と冒険を繰り返してきたボウイの新たな挑戦)、ナイル・ロジャースを起用したこの作品は、ディスコでかかっても違和感のないキャッチーなメロディと80年代のきらびやかなサウンドに彩られたダンス・ポップ作で、従来のファンを困惑させるに充分だった。
おまけに、明るいパステル・カラーのスーツを着て踊るボウイである。困惑が幻滅へと変わった人も少なくなかった。評論家たちには、時代の先を歩いていたボウイが、時代に迎合したと言われた。が、そんなこと、私には関係なかった。
デュラン・デュランやジャパンからボウイに入った私は、『スケアリー・モンスターズ』でボウイを知った。まだ容易にMVを観られる時代でもなく、むしろ映画雑誌で、“誰かを演じるボウイ”を見る機会のほうが多かった。
だから世に送り出された音楽と共に、ミュージシャンとしてのボウイの姿を見てああだこうだ言える、本当の意味での“オンタイム”は、『レッツ・ダンス』だった。「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」MVのボウイと「モダン・ラヴ」MVのボウイはまるで違ったけれど、清潔感のあるスーツ姿も悪くない。
この頃になると日本でもMTVの影響が大きくなっていた。
金髪で細身、どこか陰りのあるダンディな36歳のボウイに、18歳の女子高生がキャーキャー言っていた。
アルバム・リリースから少し遅れて公開された『戦場のメリークリスマス』もヒットし、ラジオや音楽誌はもちろん、ファッション誌や一般週刊誌、新聞……方々にボウイがあふれた。私はボウイ見たさに雑誌『JUNE』まで買って貪り読んだ。ディスコに行けば、「レッツ・ダンス」の♪アー、アー♬というイントロでフロアが沸いた。元東芝EMIの山田正則氏(後日インタビュー記事掲載予定)は、当時のボウイを“アイドル”と呼んだが、確かにそうだった。
アルバム『レッツ・ダンス』に伴う大規模なワールド・ツアー、“シリアス・ムーンライト・ツアー”(タイトルは「レッツ・ダンス」の歌詞より引用)が日本にやってきたのは、アルバム・リリースから半年経った頃。
10月20日の武道館(4回)を皮切りに、横浜スタジアム、大阪府立体育館(現エディオンアリーナ大阪:2回)、大阪万博記念公園、名古屋国際展示会館、そして10月31日の京都府立体育館(現島津アリーナ京都)の、5都市6会場10公演を行なった。
私は、友だちと武道館で入り待ちをした。黒塗りの車が入ってきて、黄色い歓声が上がったが、目の前を過ぎていく車の中にボウイが乗っていたのかどうかはわからない。それでも、車から下りる人影を遠くに見ながら、私も叫び続けていた。
文/赤尾美香
※本記事は2015年12月に寄稿されました。