佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 11

Column

日本のエレキギター・レジェンド「田端義夫」と、ロック・レジェンド「忌野清志郎」に共通する最初のギター

日本のエレキギター・レジェンド「田端義夫」と、ロック・レジェンド「忌野清志郎」に共通する最初のギター

あるテレビ番組の収録で、田端義夫さんの長女で付き人だった勝山紗穂里さんにお目にかかって、生前のお話をじっくり伺うことが出来た。 そして50数年間愛用していた伝説のエレキギターも、じっくり見せていただいた。

そのギターは彼の音楽生活そのものであり、ステージだけではなく寝るときにも、必ず手の届く身近な場所に置いていたという。

バタヤンこそ、日本のギターレジェンド

胸の位置に小ぶりのエレキギターを抱えて、拳を天に突きあげ、客席に向かって「オース!」と声をかける田端義夫ことバタヤン。
トレードマークともなったパフォーマンスでステージを湧かせたバタヤンが2013年4月25日に94歳でこの世を去ってから数週間後、映画『オース!バタヤン』が劇場公開された。
映画の公式サイトにはそのとき、監督のこんなメッセージが載った。

20年ほど前、大阪の中座でホンモノのバタヤンを観た日から、ずっとバタヤンの映画を撮りたいと思ってきた。バタヤンが90歳を目前にしたある日、そのチャンスがやってきた。今しかない、ラストチャンスだ !
その歌声とギターの音色が戦前から今日に至るまで日本人の心を揺さぶってきたことはいうまでもないが、バタヤンがエレキギターを持って歌い始めたのは、マディ・ウォーターズより早い。

「シカゴ・ブルースの父」と呼ばれたマディ・ウォーターズが、ブルースにエレキギターを持ち込んでステージに立ったのは、1944年頃だったと伝えられている。
1939年に最初のレコード「島の船唄」がヒットした田端義夫が、自前のエレキギターで歌ったのは1942年のことだというから、「バタヤンこそ、日本のギターレジェンド」という言葉は的を射たものだ。

田端義夫=バタヤンは生い立ちからして、アメリカのブルースマンのようだった。
3歳で父を亡くし、極貧の生活のために小学校へ通えず、3年で自主退学している。
家では米を買うお金がないので、紅しょうがだけをおかずにして、おからを食べて飢えをしのいだという。
そのために慢性の栄養失調になったことから、徐々に右目の視力を失った。

やさしかった二人の姉たちは年頃になると、借金の形として芸者になった。

バタヤンは13歳になると生まれ故郷の三重県松坂市から名古屋に出て、薬屋、パン屋、鉄工所と職替えしながら丁稚奉公して働いたが、いつも歌を心の友として、河原で歌の練習をしたという。
やがてディック・ミネがエレキギターを持って歌う姿に憧れて、それを手に入れたいと思うようになった。
ところが丁稚奉公の給料はわずか50銭、ギターはその1年分以上の価格だった。

そこでバタヤンはベニヤ板をギターの形に切ってタコ糸を張り、ほとんど音が出ないギターを作ると、教則本で指の動きを学んだ。
ちなみにこのベニヤのギターのことを「イター」と呼んでいたそうだが、貧しくて苦しい生活でも、ユーモアは欠かさない人柄がつたわってくる。

バンドマンを志した忌野清志郎

東京都下の国立で中学生の栗原清志がバンドマンを志したのは、それから30年後、1965年のことである。

しかし、当時はまともなギターがほとんど手に入らなかったという。
栗原清志すなわち、後の忌野清志郎は最初のギターを自分の手で作ったときのことを、著書のなかでこのように述べている。

まともなギターは高嶺の花で、庶民のガキにはとても手の届くシロモノじゃなかった。だから最初は、自分で作るしかなかったんだよ。ノコギリでベニヤを切って、それに針金を張ってね、弦やフレットの数もわからなかったから、もちろんカッコだけ。音なんか鳴るわけがないけど、ギターの形さえしていればそれだけで嬉しかった。それぐらいギターが欲しかったんだ。
( 忌野清志郎著『ロックで独立する方法』太田出版)

田端義夫は18歳の時、名古屋の歌謡コンクールで4千人のなかから選ばれて優勝し、歌手の道を目ざして上京する。そして、ポリドールレコードと契約して1939年にリリースした「島の舟唄」がヒットして、デビューにこぎつけた。

だがまもなく戦争が激しくなって、慰問兵として幾度も戦場にかりだされた。片眼だったことで兵役は免れたが、地雷が仕掛けられている橋を猛スピードで走り抜け、からくも九死に一生を得たこともある。

名古屋、神戸、大阪と、ゆく先々で3度の空襲を体験したが、なんとか生きのびて終戦を迎えた。そして終戦の翌年、国外から引き揚げてくる人たちをテーマにした「かえり船」の大ヒットが生まれた。

田端義夫は昭和20年代を代表するスター歌手として、岡晴夫、近江俊郎とともに戦後三羽烏と呼ばれた。

トレードマークとなったエレキギターを水平にかまえた独特のスタイルは、ピックのない時代にエレキを指で弾こうとしたからだった。
そのギターは1954年に手に入れたアメリカからの輸入品、「ナショナルNO.1124」(1953年製)である。
バタヤンはこのギターだけを50年にわたって、自分で改良して修理しながら使い続けた。

「ギターは軽いのが一番いい」

そうやって最後まで現役歌手を貫いたバタヤンの姿は、忌野清志郎がマディ・ウォーターズについて語った文章、「泥水(マディ・ウォーターズ)を飲み干そう」とも重なってくる。

本当に自分の音楽が好きだったら50歳になっても60歳になっても音楽をやってステージに立つだろう。マディ・ウォーターズを知ってるかい? 80歳を超えても現役で死ぬまでイカレたブルースを歌ってた人だよ。本当に何よりも音楽が好きだったんだよ。世界にはそういう人がたくさんいるんだぜ。
忌野清志郎「瀕死の双六問屋(完全版)」(新人物往来社)

ちなみに忌野清志郎が愛用した楽器たちの写真集『忌野清志郎ロッ研ギターショー』には、約30本のギターが掲載されていている。
トップを飾っているのは、愛機として有名だったフェンダー・エスクワイアだ。

そのページを順にめくっていくと、38ページにバタヤンでおなじみのナショナルのエレキギターが登場しているのに気づいた。それは1953年の「ナショナルNO.1124」にとって後継機種といえるもので、1960年製の「ナショナル・ウェストウッド1960」というモデルだった。
解説を読むと、1995年にナッシュビルでレコーディングした際に、本人がビンテージギターショップ’で購入したという。

最初の手作りベニヤ板ギターだけでなく、ここでもギターが共通していたことに吃驚してしまった。

しかも長男の栗原竜平氏によると自宅用ギターとして生涯を通して身近に置いて愛用していたこともわかった。

「僕が物心ついた頃から日常に溶け込んでいました。必ず本人がいるスペースに転がしてあって時間もわきまえず弾いていましたよ」

竜平氏によれば自宅での作曲にも用いており、思いついたフレーズをその場で書き留める姿もよく見かけたという。 あるとき、竜平氏がそればかりを弾く理由を尋ねると、こんな答えが返ってきたという。

「ギターは軽いのが一番いい」

そのユーモアを含んだ言葉に、ぼくはもう一度驚かされたのだった。


ギター・マガジン
忌野清志郎 ロッ研ギターショー
愛蔵楽器写真集

https://www.rittor-music.co.jp/product/detail/3116313016/


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