黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 7

Interview

バンダイナムコ小山順一朗氏(中)アーケードゲーム開発の苦楽

バンダイナムコ小山順一朗氏(中)アーケードゲーム開発の苦楽

ナムコの秘密兵器?謎の筐体「忘我(ぼうが)」で気絶

中村さん自身がモノづくりの人でしたからね。

小山 で、金勘定は厳しい。当時のナムコはゲームセンターのほうを営業、セールスは販売って呼んでいて、販売には特に厳しかったですねえ。どんな方法でも売ってこい、みたいな。

『ボウガ』という装置を作っていたのも覚えています。「我を忘れる」って書いて『忘我(ボウガ)』。なんか真っ黒い機体で風とか匂いとか出るヤツで、入社1年目の自分がそこに座らされたんですが気持ちよくてすぐに寝てしまって5分で意識がなくなりました(笑)。

ええ~、5分で!?

小山 ハッと気がついたら「はい、もう昼休み終わってるよー」って言われて、「はあ~、何だこりゃあ」みたいな。

当時、シンクロエナジャイザーっていう目の周りが光ってリラックスさせるみたいなのありましたよね。

小山 はいはい、クルクルクル~って回るやつですよね。ありました、ありました。

それに近いものですか?

小山 近いものだとは思いますが、装置としてはもっと大がかりなもので、もう5年も研究しているって言っていました。研究自体を止めるか止めないかっていう寸前の頃で、新入社員だからということで実験台にさせられたんですね。

それは寝ちゃうくらい気持ち良かったんですか?

小山 今考えるとなんで寝ちゃったんだろう? 風とか匂いとか感じなくなって音も聞こえなくなって。

面白いものがあったんですねえ。ちなみに、それはいつの間にかプロジェクトとしてクローズしちゃったんですか?

小山 そうですね。今ではもう、覚えている人もほとんどいないと思います。

アーケードゲームの世相が変わり始めた1990年代

ナムコに入社されてメカエンジニアに配属されたわけですが、ご自身の希望だったんですか?

小山 いや、企画職を希望していました。でも、90年から体感ゲームブームがわき起こっていて、ナムコも花と緑の万国博覧会で大型の『ギャラクシアン3』(注16)を出展したりとか、ユーノスロードスターと提携してポリゴンを使ったユーノス・ドライビングシミュ―レターを作ったりとかしていたので、メカエンジニアが足りてなかったんですね。それで、理工学部で精密機械をやっていたということで、入ってすぐそこに配属されました。

注16:1990年に大阪鶴見で開催された国際博覧会。ナムコは28人同時プレイと360度マルチスクリーンを採用した『ギャラクシアン3』を出展した。

あの時代、セガの『ハングオン』や『バーチャレ-シング』などから始まった体感ゲームが一大人気になっていましたね。ナムコさんで言えば『アルペンレーサー』もそうですよね。

小山 そうですね。一番最初にセガさんの『ハングオン』、『スペースハリアー』があって、『アウトラン』が出た頃に『ファイナルラップ』。あれがナムコの最初の体感ゲームですね。で、ポリゴンを初めて使った『ウイニングラン』を作って、ヘリコプターで上下する『メタルホーク』があって、そのときに、「こりゃあナムコもいいなあ」と。(セガに)追いついてきたなあって思って、最終的にナムコに決めるきっかけになりました。そういうゲームセンターが遊園地みたいになっていく瞬間でしたね。

大学生や社会人が遊んだりとか、女の子が一緒に見に来たりとか。多分あそこでゲームといいますか、アーケードの世相が変わったんですよね。

小山 ゲームセンターからアミューズメントパークへ、みたいに言われてましたね。ちょうど僕が入社したころに、ハイパーエンタテインメント構想っていうのがナムコにあって。それで『ギャラクシアン3』みたいなのとか、ワンダーエッグ(注17)につながっていくんですね。

注17:ナムコが運営していたテーマパークで1992年に開園。ゲームメーカーが運営する日本初のテーマパークとして話題を呼んだが2000年に閉園となった。

ワンダーエッグ、懐かしいですねえ。

小山 遊園地をやりたいっていう中村雅哉の夢を実現しようということになって東急二子玉川に作ったんですよね。入社して1、2年目でメカエンジニアとして、その中のものをバリバリ作っていました。

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